第3話

外れ値を見る

社名は、御子柴(みこしば)がその場で決めた。株式会社シグマ。

「Σ――総和の記号だ」と彼は言った。「ばらばらの点を、足し合わせて、意味にする。君がやってることそのものだろう」

「シグマには、もう一つ意味があるわ」澪(みお)が初めて、自分から口を挟んだ。「標準偏差のσ。平均から、どれだけ外れているかを測る記号。……外れ値を見る、ということ。普通の中に紛れた、おかしなものを、見つける」

「いいね」御子柴は笑った。「それも、いただこう」

合意は成立した。ならばこの場の用件は終わりで、続きは後日、書類とメールで詰めればいい。そう結論づけて、澪は小脇のノートパソコンを抱え直し、帰路の駅へと歩き出そうとした。電車の時刻表が、すでに頭の中で最適化されていた。

その腕を、御子柴がふいに掴んだ。

「こっちだ」

「……?」

「タクシーを呼んである。今日はもう帰らない。これから物件を見に行く。五反田(ごたんだ)に、安いコワーキングの空きがあるんだ。創業手続きの書類も、車で説明する。だから、帰りの時刻表は計算しなくていい」

澪は、掴まれた腕を、見下ろした。

移動の最適化を、相手が肩代わりした。タクシーの手配、ルートの選定、私の思考リソースの節約。――合理的だ、と澪は結論づけた。共同経営者としての、効率的な役割分担。とても理にかなっている。

彼女は、その手のひらの温度を、移動コストの削減としか分類しなかった。

その分類が、これから先、何百回も繰り返される最初の一回だということを、まだ知らずに。

タクシーの後部座席で、御子柴はもう次の話をしていた。

「会社は今日から動く。でも、理想だけじゃ食えない。明日からは、稼がないとな」

「稼ぐ?」

「受託だよ。他社が匙(さじ)を投げた、解けない課題。それを拾って、君が解いて、僕が売る。そうやって、研究室の家賃を稼ぐ」

御子柴は、窓の外を流れる街を見ながら、軽く言った。

「ちょうど、一件、心当たりがある。原因のわからない在庫で潰れかけてる豆腐屋だ。――最初の食いぶち、取ってくるよ」

澪は、窓ガラスに映る自分の顔を、ぼんやりと見ていた。

無職になってから、まだ一時間も経っていない。なのに、もう次に解くべき問題が、目の前にぶら下がっている。

肩書も資本もない。あるのは、膝の上のノートパソコンと、隣で勝手に未来の話をしている男だけだ。

なのに、不思議と、心細さはなかった。

第3話 外れ値を見る

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『ベイズの千里眼』は、データで嘘を見抜く天才と、彼女を支えるクール王子が、小さな会社を育てていく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。