第33話

幕間「酔った予言者」

御子柴が買い物を片付けているあいだ、彩は勝手にクローゼットを開けていた。

「うわ、待って」彩の声が跳ねた。「澪ちゃん、この服、めちゃくちゃ趣味いいじゃない」

引っ張り出したのは、淡い色のワンピースや、丁寧な仕立てのブラウスだった。今のよれたパーカー姿からは想像もつかない、清楚で可愛らしい私服が、ハンガーに整然と並んでいる。

「可愛い?」澪は、缶を傾けながら他人事のように言った。「その基準で選んでないから、わからないわ」

「じゃあ何基準で選んでんの」

「熱伝導と、着脱コスト」澪は真顔だった。「汗をよく逃がして、着るのも脱ぐのも速い。無駄な時間を最小化できる。――可愛いかどうかは、知らない。副産物よ」

「副産物で、こんな可愛くなる?」彩は呆れて、それからニヤリと笑った。「ねえ、髪。ずっと結んでるより、たまにほどいたほうがいいと思うんだけど」

「ほどくと、視界に入って邪魔よ」

「今、ほどいてるじゃん」

「これは、ゴムが切れただけ」

彩がワンピースを澪の肩に当ててみせた、ちょうどそのとき、御子柴がキッチンから顔を出した。

普段どおりの、なんでもない動作だった。だが、顔を出したまま、動きが止まった。

ほどけた髪。まくった袖から覗く手首。仕事の鎧を全部脱いだ、なんの武装もないオフの澪。会社では絶対に見ない姿が、そこにあった。御子柴の視線が、一瞬だけ、行き場を失った。手にしていたグラスが、指の中でかすかに傾いた。

「……氷」御子柴は言いかけて、言い直した。「氷、あるか」

「冷凍庫」澪は振り向きもしない。「左の扉」

御子柴は、逃げるようにキッチンへ引っ込んだ。グラスに氷を入れる音が、やけに長く続いた。

彩は、その一部始終を見ていた。口元を押さえ、声を殺す。

――御子柴さま。ワンピース一枚で撃沈とは、見立てより脆うございます。「氷、あるか」で誤魔化されたおつもりでしょうが、あの手首の傾き、しかと拝見いたしました。

そして、当の澪は――もう次の缶を開けていた。

夜が更けて、彩が持ち込んだ酒が、テーブルに並んだ。

「差し入れ」彩が缶を配った。「生存確認の、お祝い」

「それで、何本目だ」御子柴が、彩の配った缶を、澪の手に渡る前にそっと押さえた。「徹夜明けだ。今日は、やめておけ」

「なぜ」澪は、押さえられた缶を、指一本で引き戻した。「三日ぶりに解析が一巡したのよ。祝杯くらい、合理的な報酬設計だわ。それに、アルコールは私が処理する。データに障る量じゃない」

「時間の問題じゃない」御子柴は退かなかった。「夜も遅い。飲むなら、日を改めろ」

「“別の日”は、私の予定表に存在しないの。明日は明日で、別のデータを漁る」澪は事もなげに缶を開けた。ぷしゅ、と小気味よい音がした。

「ほーら社長、労務がうるさい」彩が、御子柴の手をぱしりと払った。「生存のお祝いに、水を差さないの」

御子柴の手が、行き場を失って、宙で止まった。

澪は、いくら飲んでも顔色一つ変えなかった。アルコールも“処理”してしまうのだろう。だが、三本目の缶が空になったあたりから、瞬きが、少しずつ長くなった。据わった目の焦点が、モニタの緑の文字から、ゆっくりと剥がれていく。四本目の半ば――堰の一枚が、内側から静かに外れた。

「――なあ、御子柴」

口調が、伝法に崩れた。缶を片手に、椅子の背にだらしなくもたれ、澪は目を据わらせて律を見た。

「お前ら、揃いも揃って、なんで人を信じたがるんだ?」

「……人を?」御子柴が、警戒するように缶を置いた。

「そうだよ。営業だの、信頼だの……ま、健気だがな。脆いんだよ、そういうのは。脆い」澪は、指を一本立てた。それから、その指をひらひらと振った。「いいか。いいか、御子柴。データは、嘘をつかねえ。裏切るのは……裏切るのは、いつだって人間のほうだろうが」

「氷室――」

「聞けよ、まだ話は終わってねえ」澪は、律の言葉を平らに踏み潰した。酔っても、律に言い負かされる気配は微塵もない。むしろ、上司が部下を諭す構図が、そっくり反転していた。「昨日の善人が、今日の詐欺師だ。人間の言うことなんざ、事前確率の当てにもならねえ。だがな、こいつは――」

澪は、唸り続けるGPUの林を、缶で指した。

「こいつは、裏切らねえ。夜通し、文句も言わず、私の言うとおりに計算する。熱を吐いて、電気を食って、それでも三日、一度も私に背かなかった。……人間より、よっぽど誠実じゃねえか」

「箱に情が移ってる」彩が、げらげら笑った。「澪ちゃん、それ、恋じゃん」

「恋? 馬鹿を言え」澪は真顔で切り返した。「これは、信頼だ。裏切らねえ相手を、正しく信頼してるだけだ。――そこの色恋しか頭にねえ社長とは、わけが違う」

御子柴は、何も言い返さなかった。

言い返す代わりに、立ち上がって、キッチンから水を一杯汲んできた。それを、澪の缶の隣に、そっと置く。それから、床に転がったクッションを引き寄せ、テーブルの脇に腰を下ろした。お姫様抱っこも、ソファへ運ぶこともしない。ただ、酔った澪が転ばないよう、手の届く場所に低く座って、水を切らさないよう見ている。それだけだった。

「水を、飲め」御子柴は言った。「明日、頭が痛くなる。――これは、翌日の生産性を守るための、経営判断だ」

「……ほう」澪は、据わった目で水を見た。それから、こくりと一口飲んだ。「福利厚生ってやつか。悪くねえ制度だ。うちの労務は、よくできてるな」

御子柴は、答えなかった。ただ、澪の空になった缶を静かに下げて、水の入ったグラスを、また一ミリ、彼女の指のほうへ寄せた。言葉にすれば崩れるものを、彼はいつも、所作の中に沈めてしまう。

彩は、少し離れたクッションから、その二人を眺めていた。唸るGPUの林の前で、氷のベイズという名の酔った予言者と、その足元に低く座って水を差し出す男。声を殺して、胸の内で、深々と頭を垂れる。

――御子柴さま。労務で片づけられ、福利厚生と呼ばれ、本日も見事な空回りにございます。少々酔わせて舌を緩めれば、お二人の間合いもよっく見えるというもの。この距離、この熱量で、お返事が「うちの労務はよくできてる」――。ですが、どうぞご安心を。わたくし、この特等席だけは、生涯手放しはいたしません。

澪は、やがてクッションに沈んで寝息を立て始めた。据わっていた目が、ゆっくりと閉じる。律は身を屈め、その頬にかかったほどけた髪を、そっと払ってやった。

GPUの林が、夜通し低く唸っていた。無数のファンが熱を吐き出し、青と緑のランプが、規則正しく瞬いている。酔いつぶれた澪の寝息だけが、その唸りの合間に、小さく混ざっていた。

第33話 幕間「酔った予言者」

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『ベイズの千里眼』は、データで嘘を見抜く天才と、彼女を支えるクール王子が、小さな会社を育てていく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。