第39話

初代の宝

立証は、内側から、破られた。

謝罪を澪に受け流されて、椎名は一度、肩の力を抜いた。それから居住まいを正し、彼は、ここへ来たもうひとつの用件を切り出した。告発の、その後だ。応接のソファに浅く腰かけたまま、彼は、終いまでの顛末を、澪と御子柴に話した。彩も、壁際で、黙って聞いていた。

「警察に渡したのは、契約書に、送金の記録。それから、コトバの利用者データと、氷室の遺した検出コードの第三者提供を、明確に承認した権限ログです。持ち出せる限りを、全部。――その承認の判子は、たった一人の名で、すべてに押されていました」

桐生颯太。

本人の同意なき第三者提供は、個人情報保護法に正面から触れた。そのデータが、現に詐欺グループの「カモ選別」に使われていた以上、詐欺幇助も問われる。捜査の手は、コトバ本体へ伸びた。

「壁を破る最後の一発になったのは、氷室、あなたのグラフだそうですね」椎名は、澪を見た。「コトバから詐欺グループへ流れたデータと金の線を、一本残らず描き切ってあった。だから、私の資料が『故意』を撃ち抜けた。外からは絶対に届かない壁を、あなたが、外から、ぎりぎりまで削ってくれていた」

澪は、何も言わなかった。手の中の缶コーヒーは、まだ半分、残っていた。

「桐生社長とは」椎名は、声を落とした。「任意の聴取を受ける、前の夜に、一度だけ、向き合いました。初代の右腕として、最後に」

澪は、その場に立ち会っていない。けれど、椎名の声を通して、コトバの社長室の、冷えた空気だけが、伝わってきた。

「『あなたは、初代が遺したものを、食い潰しただけだ』と。声を荒げず、それだけ、置いてきました。桐生さんが唯一、逆らえない名前を――初代。父親。あの人が一度も、その背中に追いつけなかった男の名を」

椎名は、目を伏せた。

「初代は、『言葉で人を繋ぐ』と言って、あの会社を立てた。言葉を信じて預けてくれる人たちを、宝だと思っていた。桐生さんは、その宝を、名簿にして、騙す側へ売った。あれは経営じゃない。初代が三十年かけて積んだ信用を、現金に換えて、使い切っただけです」

「それで」澪が、初めて口を開いた。「あの人は、何て言ったの」

椎名は、苦く笑った。

「『データは資産だろう。運用して何が悪い。ユーザーのデータを売って何が悪い。俺は、新しいビジネスをやっただけだ。お前らは、それが理解できない、古い人間なんだ』と。――吐き捨てて、私に背を向けました。最後まで、それでした」

澪は、缶コーヒーの底の、最後の一口を飲み干した。

カモにされた人たちが、現に、金を奪われ、人生を削られた。守るために書いたコードが、狩る道具に化けた。その引き金を、データを売って引いた男が、自分が何を壊したのか、最後の最後まで、一文字も理解していない。

「……想定内ね」

澪は、空になった缶を、机に置いた。

「つまらないわ。あの人は、最初から、事前確率を更新しない人だった。前の会社で、私を高卒の小娘と切ったときから、観測の精度を、一度も上げていない。データを売れば、向こうに人がいる。その人が騙される。その因果の線が、あの人の中には、最初から引かれていない。線がない人に、線が見えるようにはならない。――更新するための、入力が、そもそも通らないの」

それは、勝ち誇った声ではなかった。ただ、解いた問題の答えを、淡々と読み上げるような声だった。

椎名は、その横顔を、しばらく見ていた。それから、ゆっくりと、ソファから立ち上がった。

「止められなかった。初代の右腕でありながら、あの人の暴走を、そばで見ているしかなかった。それを終いにできたのは、氷室、あなたがいたからだ。礼を言う。――渡すべきものは、渡しました。これからは、私の番だ」

これから自分にも、聴取と、相応の責めが待っている。共犯の一人として、自分も筋を通す――椎名は、それを承知の顔で、静かに言った。

「達者で、氷室。君が、君のやり方で、ちゃんと世界と向き合っているのを、見られてよかった」

澪は、立ち上がりはしなかった。ただ、頷いた。

「あなたも、抱えた宿題を、終いまで通したのね。私の観測データとしては、悪くなかったわ」

椎名は、その言葉に、泣くような笑い方をした。もう一度だけ深く頭を下げ、彼は、応接を出ていった。二度と、澪の前に現れるつもりのない足取りだった。

膿は、出し切った。コトバは、二代目もろとも終わった。澪が前職で握りつぶされた技術の宿題も、椎名が三年抱えた罪悪感も、それぞれの手で、終いまで通された。

澪は、感傷に浸らなかった。一線を踏まれたから、戻した。それだけのことだった。

ただ――マコトは、守られた。詐欺のないSNSという、御子柴の掲げた旗は、嘘の側に塗り潰されずに、まだそこに立っている。

それで、十分だった。

「終わったな」御子柴が、隣で言った。声に、長い息が混じっていた。

「ええ」澪は頷いた。「国内は、ね」

御子柴が、こちらを見た。

「国内は?」

澪の目は、もう、次のグラフを見ていた。出し子の網も、金の窓口も、コトバの癒着も、ここで切れた。けれど、澪が描いた地図には、まだ、辿りきれなかった線が、何本も、国境の向こうへ伸びたまま、残っていた。

「本丸は、まだ、海の向こうよ」

澪は、静かに言った。膿は出した。だが、それは、もっと大きな身体の、ほんの一部の話でしかなかった。

第39話 初代の宝

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『ベイズの千里眼』は、データで嘘を見抜く天才と、彼女を支えるクール王子が、小さな会社を育てていく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。