第10話

百人の最初

五反田のコワーキングは、窓が大きいだけのワンフロアだった。

長机が一つ、椅子が三脚、コーヒーサーバーが一つ。それが株式会社シグマの、全資産に近い。澪(みお)はその机の端にノートパソコンを開き、ターミナルの黒い画面に文字を流していた。

「あと、五分で出すぞ」

御子柴(みこしば)が、別の机からそう言った。彼の前にはタブレットと、刷りたてのインクの匂いがする紙束。マコトの利用規約だ。彩(あや)のデザインしたロゴ――まっすぐな一本線が上に小さく跳ねている――が、ログイン画面で控えめに光っていた。

「もー、澪ちゃん、また顔色」

彩が水のボトルを置きながら言った。「ちゃんと寝てる? 公開日に倒れたら、私、社史に『初代デザイナー、氷のベイズを看取る』って書くからね」

「睡眠は取ったわ。四時間。脳の記憶定着には、ノンレム睡眠が二周あれば足りる」

「それを世間では寝てないって言うの」

澪はそれには答えず、最後のテストスイートを走らせた。緑色の「PASS」が、画面を下から上へ駆け上がっていく。一行も赤が混じらない。

「テストは、全部通った」

ぽつりと、それだけ言った。

御子柴が、わずかに口の端を上げた。「聞いたか、彩。氷のベイズの太鼓判だ」彼は紙束を置いて立ち上がった。「じゃあ、出そう。マコト、開店だ」

御子柴の合図で、彩がエンターキーを押した。三人で、というには地味すぎる瞬間だった。クラッカーもシャンパンもない。ただ、サーバーのどこかで、新しいSNSが世界に向けて口を開いた。

最初の一時間で、利用者は四十二人になった。

「前職の伝手と、彩のフォロワーと、知り合いの知り合い」御子柴は管理画面の数字を眺めて言った。「百には、今日中に届くな」

「百」と澪は復唱した。「少ないわ」

「少ない」御子柴はあっさり認めた。「でも、ゼロじゃない。百人いれば、百通りの使い方が見える。バグも、要望も、悪意も――全部、本物のデータで出てくる。君が欲しがってたやつだ」

澪の関心が、そこでわずかに動いた。本物の盤。生まれたばかりの、誰のフィルターも通っていない生データ。それは、彼女がこの会社に留まる唯一にして十分な理由だった。

「で」御子柴が、こちらを向いた。「氷室。さっきから僕が掲げてる旗の話なんだが」

ログイン画面には、彩の手で、短いコピーが置かれていた。

詐欺の流れてこない場所を。

「掲げるのは結構だが」澪は画面をスクロールさせた。「あれは、約束しすぎよ。詐欺ゼロなんて、技術者は言わない」

「言わない?」

「言えないの。どんな作りでも、抜けはゼロにならない。百点は原理的に無理。ただ少しでも減らすことはできる。新しいアカウントや投稿が、ほかの利用者の目に触れる前に審査して落とす」澪の指が、検出パイプラインの図を呼び出した。点と線でできた地味な配管図だ。「アカウントと出稿前のスクリーニング。利用者の認証。通報。そして常時の監視。――抜けはどの段にも残る。残るけど、段をくぐり抜ける確率は、段を重ねるほど掛け算で小さくなる。一段で十回に一回抜けても、四段なら一万回に一回。ゼロにはならない。けど、限りなく近づける。だから『流れてこない』に近づく、よ」

御子柴は、その配管図をじっと見た。それから、いつもの台詞を口にした。

「で。それ、僕にもわかるように言うと?」

「水道よ」澪は短く言った。「汚れた水を完璧に汚れのない水にすることはできない。――でも、可能な限り汚れのない水ならできる。粗いので大きなゴミを、細かいので砂を、その先でさらに細かいので――と、目の違うフィルタを何重にもくぐらせる。一枚ごとに水はきれいになる。そうやって、飲める水にいちばん近づける」

「いいね」御子柴が笑った。「それ、そのまま彩にコピーにしてもらおう」

「経営判断で技術を歪めないなら」澪は釘を刺した。「水道の比喩は、構わないわ」

第10話 百人の最初

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『ベイズの千里眼』は、データで嘘を見抜く天才と、彼女を支えるクール王子が、小さな会社を育てていく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。