第26話

一か八か

机が、空いていた。

朝、澪(みお)が出社すると、フロアの机が、ほとんど空になっていた。一人、二人ではない。成長期に増えたエンジニアも、カスタマーサポートも、運用の担当も、昨日まで席を埋めていた顔ぶれが、まとめて消えていた。机の上には、社員証と短い書き置きが、何枚も並んでいた。コトバが、ついに本気の引き抜きをかけたのだ。一人ずつではなく、チームごと、まとめて。

「一斉に、来たか」

御子柴(みこしば)が、書き置きの一枚を手に取って、静かに言った。声は荒れていなかった。むしろ、予測の範囲だったという顔だった。「沈む船から、いっせいに飛び降りた。タイミングを合わせたのは、向こうの作戦だ。一人ずつなら踏みとどまる者も、全員が降りるとなれば、降りる。当然だ」

「責められないわ」澪は、空いた机の列を見渡した。「期待値で動くのは、合理的よ。誰も悪人じゃない」

そう言いながら、澪の頭の片隅で、前職の景色が、ちらりと立ち上がった。

──ああ、これ。船が傾いた時の、あの速さ。

『ご栄転、おめでとうございます』。コトバで、誰かが沈みかけたプロジェクトから抜けるたび、見送りの体裁で交わされた挨拶。栄転という名の脱出。責める気はない。

「……問題は、ここからね」澪は、感傷を畳んだ。「人が、消えた」

数千人のユーザーを抱えるマコト。日々のエラー対応。問い合わせ。サーバーの保守。それを回していた手が、一晩で、ごっそり消えた。

「私は、辞めないよ」

彩(あや)の声が、フロアの隅から飛んできた。デザイン用の大きなモニターの前に、当たり前のように座っている。

「念のため言っとくけど。澪ちゃんのUIを作るって決めてんの、私。今さら聞くまでもないでしょ」

「聞いてないわ」澪は短く答えた。

「だよね。知ってる」彩は、ぷっと笑った。

御子柴が、ホワイトボードの前に立った。

「整理する」彼は、淡々と数字を書いた。「残った人手は、三人。回さなきゃならない運用は、消えた連中が十人がかりでやっていた量だ。受託の納品も、止められない。――澪。正直に聞く。この人数で、どう運営を回す」

澪は、答えなかった。

正確には、答えられなかった。澪の世界の音が、その問いと同時に、すっと遠のいていったからだ。

人手が、ゼロに近い。運用は、十人分。この制約。普通に考えれば、解けない。詰んでいる。だからこそ――面白かった。解けないはずの方程式に、もし一本だけ、解の通る道があるとしたら。

「人手で回す前提を、捨てればいい」

澪の声が、少しだけ、別人のものに変わった。

「人間が、エラーを見て、原因を切り分けて、直して、テストして、デプロイする。問い合わせを読んで、返す。コードを書く。――その工程の、ほとんどを、AIエージェントに回させる」

「話が大きすぎて、僕にはまだ絵が見えない。噛み砕いてくれ」

御子柴が、すかさず受けた。突き放さず、橋を架けるように。

「いいえ、現実の話よ。すでに私はコーディングはAIにさせているわ。これまでの私のやり方は、AIに『このコードを書いて』と頼む、までだった」

澪は、宙の一点を見たまま言った。

「今度は、その一段、上。簡単にいうと『この会社を回して』と頼む。バグが出たら自分で原因を探して、直して、テストして、本番に出す。問い合わせが来たら一次対応する。それを自律的にやり続けるエージェントを、何体も編成して、私が指揮台に立つ。――作業は、エージェント。何を作るか、どこで人間が止めるかは、私」

「……それ、できるのか」

「わからない」澪は、初めて、わずかに口の端を上げた。「やったことがない。一か八か、やってみるか」

澪は、椅子に座り直し、上着を脱いだ。袖をまくる。

そこからは、誰も、声をかけられなかった。

第26話 一か八か

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『ベイズの千里眼』は、データで嘘を見抜く天才と、彼女を支えるクール王子が、小さな会社を育てていく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。