第16話

財閥が、動き出す

ある朝、リビングのテーブルに、分厚い資料の束が、置かれていた。

表紙に、如月(きさらぎ)グループのロゴ。その下に、俺の作品のタイトルが、印刷されていた。『白銀の姫と、夜明けの物語(はくぎんのひめと、よあけのものがたり)』。

「なんだ、これ」

俺が訊くと、如月は、湯呑みを俺の前に置きながら、静かに言った。

「企画書です。あなたの作品を、世に出すための」

俺は、資料を、めくった。

広告出稿の計画。書店での展開。メディアへの露出。書籍化の、想定スケジュール。数字が、桁違いだった。俺の、三年分のPVを、初日で、軽く超える規模の話が、そこに、並んでいた。

財閥の、物量だった。

俺は、資料を、めくる手が、止まった。ここに書かれている数字は、俺の理解を、超えていた。広告費だけで、俺が一生かかっても稼げない額が、ぽんと、計上されている。書店の平積み。特設コーナー。俺の、天板にひびの入ったノートPCから生まれた話に、桁外れの物量が、注ぎ込まれようとしていた。

「待ってくれ」俺は、資料を置いた。「俺は、こんなこと、頼んでない」

「存じています」

如月は、頷いた。

「あなたは、数字を求めていない。一人でも読んでくれれば、それでいいと。……それは、わかっています。何度も、聞きました」

「なら」

「でも」

彼女の声が、静かに、強くなった。

「あなたの言葉に、救われる人は、この世に、まだ、たくさんいます。今夜も、どこかで、夜が明けるのを、待てずにいる誰かが。その人たちに、あなたの一行が、届いていない。それは――間違っている、と、わたしは思うのです」

俺は、彼女の目を、見た。

そこにあったのは、信仰だった。狂気にも見える、まっすぐな、信仰。

「あなたは、一人の読者のために書く。それでいい。あなたは、そのままでいてください」如月は言った。「数字を、集めるのは、わたしの仕事です。あなたが、一人ずつしか救えないのなら、その"一人"を、何万も、何十万も、あなたの前に、連れてきます」

財閥の総力で。

俺の、六畳一間から始まった、誰も読まなかった話を。

「あなたは、凍えた心を、明日へと結ぶ名を、持っているのに」彼女は、俺のペンネームを、口にした。「その結びが、届く範囲が、狭すぎる。わたしが、それを、世界中に、広げます」

俺は、ぞっとした。そして、同時に、胸が、震えた。

この人は、本気だ。俺の作品のために、財閥を、一つ、動かすつもりだ。

嬉しい、とは、素直に思えなかった。俺は、数字が欲しくて、書いてきたわけじゃない。バズも、書籍化も、望んだことはない。ただ、一人に届けば、それでよかった。

だが、如月の言葉には、否定できない芯があった。今夜も、どこかで、夜を越えられずにいる誰かがいる。その誰かに、俺の一行が、届いていない。それは――たしかに、俺が、いちばん、書きたかったことのはずだった。

その日の夕方、俺は、書斎で、電話の声を聞いた。

如月が、誰かと、話していた。

いつもの、家での「わたし」ではなかった。学校の「わたくし」でも、なかった。もっと、冷たく、鋭い、命令する者の声だった。

「――ええ。全部門を、動かしてください。出版も、広告も、書店も。最優先で。……予算の上限は、設けません」

俺は、息を、呑んだ。

彼女は、電話の向こうの相手に、告げていた。

「わたくしが、世に出します」

氷の令嬢の、声だった。

「この国の、すべての夜に――神様の言葉を、届けます」

電話が、切れた。

静まり返った書斎で、俺は、理解した。

もう、後戻りは、できない。

俺の知らないところで、巨大な何かが、静かに、動き出していた。誰も読まなかった、俺の物語を、無理やり、世界の真ん中へ、引きずり出すために。

俺は、あの六畳一間の、静けさを、思い出した。誰にも読まれず、それでも書き続けた、あの夜のことを。

あの静けさは、もう、終わる。

如月は、俺を、光の当たる場所へ、引きずり出そうとしている。彼女の信仰が、財閥という、途方もない力を得て、動き出した。止められる気が、しなかった。

嵐が、来る。

その予感だけが、俺の胸に、冷たく、残った。

第16話 財閥が、動き出す

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。