第29話

許せない、という氷

「あの会社を、切ります」

暦(こよみ)は、俺の代表作を笑った翔太(しょうた)の父親の会社を、財閥の令嬢の一言で、消してしまえると言った。

しかも、それを、いちばん静かな声で言った。

翌日の夜。暦は、あの灰色の書類を、また机に出してきた。

「定例監査を、待つまでもありません。契約の更新を、こちらから止めればいいだけです。理由なんて、いくらでも作れます」

俺は、原稿から顔を上げた。

「暦。それ、何を言ってるか、わかってるのか」

「わかっています」

暦は、微笑んだ。氷点下の目のまま、口元だけで。

「あの人は、神様の話を、大勢の前で笑いました。くだらないと。ひとりも読んでいないと。――そういう人間を、わたくしは、この世界に、置いておきたくないんです」

背筋が、ぞっとした。

これが、暦の独占欲だと、俺は知っていた。この人が氷点下になるのは、俺自身にじゃない。俺の話を、侮辱した者にだけだ。俺の自由は、指一本ぶんも縛らないくせに。どこへ行こうと、誰と会おうと、暦は決して止めない。鍵だって、かけない。

ただ、俺の書いたものを笑った人間のことだけは、絶対に、許さない。

それが、この人の愛し方だった。ゆがんでいて、まっすぐで、こわい。

「翔太を、こらしめたいってことか」

「いいえ」

暦は、首を横に振った。

「翔太くん個人には、興味がありません。ただ、あの人の足元を支えているものを、静かに、抜くだけです。あの人が、何を失うのかも知らないうちに」

こわい、と思ったのは、暦の言葉に、怒鳴り声も、荒々しさも、ひとかけらもないからだった。

もし暦が、顔を真っ赤にして「許せない」と叫んでいたら、俺はまだ、なだめようがあった。でも、この人は、俺の原稿の誤字を直すのと同じ静けさで、人の暮らしを消そうとしている。感情が高ぶっているんじゃない。とっくに、決めているのだ。

「暦。それは、やりすぎだ」

「やりすぎ、ですか」

暦は、ふしぎそうに、首をかしげた。本当に、わからない、という顔だった。

「神様を笑った人間が、これまでどおりの暮らしを続けることのほうが、わたくしには、よほど、耐えられません」

俺は、言葉を失った。

暦の細い指が、灰色の書類の上を滑る。そこに書かれた会社の名前を、契約の期日を、金額を、なぞっていく。まるで、原稿の誤字を直すときの、あの丁寧さで。

こわい、と思った。

でも、それ以上に、俺は、この人の底にあるものを、少しだけ、覗いてしまった気がした。

「暦。なんで、そこまでするんだ」

暦の指が、止まった。

しばらく、沈黙があった。

「……神様には、わからないと思います」

暦は、うつむいた。銀色の髪が、頬を隠す。

「あの話が、ただの物語だと思っている人には。あれを、暇つぶしや、笑いのネタだと思える人には。――絶対に、わからない」

声が、少しだけ、掠(かす)れた。

「わたしは、あの話がなかったら、今、ここにいません。文字どおり、いないんです」

暦は、それだけ言って、口を閉じた。

言い過ぎた、とでも思ったのか、すぐに視線を、灰色の書類のほうへ戻す。けれど、一度こぼれた言葉は、もう、部屋の空気に、静かに沈んでいた。

俺は、息を呑んだ。

暦が「わたし」と言った。家で素が出るときの、あの「わたし」だ。学校の氷の令嬢が絶対に崩さない仮面が、この言葉のときだけ、いつも剥がれ落ちる。

いないんです、と暦は言った。今、ここに、いない。

その言葉の底には、俺がまだ知らない、深くて暗い何かが、沈んでいる。俺の話を読んでいた、あの零時二分(れいじにふん)の夜。あの人は、いったい、どんな夜を、越えていたんだろう。

それ以上は、何も言わなかった。暦は、決して、その先を語らなかった。ただ、そのひと言だけで、俺は、この人の氷の底に、俺の知らない、深くて暗い夜があることを、はっきりと感じた。

俺の話は、この人にとって、暇つぶしなんかじゃない。命綱だったのだ。だからこそ、それを笑う人間を、許せない。

暦は、顔を上げた。氷点下の目が、もとに戻っていた。

「明日、担当の者に、話を通します」

そう言って、暦は、スマホに手を伸ばした。

その指が、画面に触れる寸前で。

俺は、気づいたら、その手首を、掴んでいた。

第29話 許せない、という氷

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。