第33話

もう、君に読ませたい話は

俺は、幼馴染に、静かに別れを告げた。

仕返しじゃない。ただ、もう、渡すものが、何もなかっただけだ。

「蓮(れん)、お願い。わたし、もう、あなたしかいないの」

優奈(ゆうな)は、涙をこぼしながら、そう言った。

「わたし、これからは、ちゃんと蓮の小説、読むから。いちばんの読者になるから。だから――」

俺は、その言葉を、最後まで聞いた。

三年前だったら、この一言で、俺は、また舞い上がっていたかもしれない。優奈に読んでもらえるなら、それだけで。ずっと、そう思っていた時期も、あった。

でも、もう、遅かった。

「優奈」

俺は、静かに、名前を呼んだ。

「三年前、俺が原稿を見せたとき、君は、なんて言ったか、覚えてるか」

優奈の肩が、びくりと震えた。

「イタい、って言ったんだ。誰が読むの、って。……あのとき、君は、一行も、読まなかった。読もうともしなかった」

責めているんじゃなかった。ただ、事実を、確かめているだけだった。

「今も、同じだ。君が読みたいのは、一位になった俺の話じゃない。一位っていう、数字のほうだ」

優奈は、何も言い返せなかった。

俺は、続けた。声を、荒らげはしなかった。

「俺、たった一人でいいから、俺の話を、ほんとうに読んでくれる人のために、書きたいんだ。数字とか、順位とかじゃなくて。俺の書いた一行に、生かされてくれる、そういう一人のために」

優奈の目から、涙が、また一粒、落ちた。

俺は、まっすぐ、その目を見て、言った。

「だから――もう、君に読ませたい話はないんだ」

仕返しの言葉じゃなかった。怒りも、恨みも、そこにはなかった。

ただの、別れの言葉だった。

優奈は、しばらく、俺を見つめて。それから、こくり、と、ちいさく頷いた。何かを、ようやく諦めた顔だった。

俺は、頭を下げて、昇降口を出た。

木枯(こが)らしが、思ったより、冷たかった。振り返らなかった。それでよかったんだと思う。仕返しは、何も生まない。俺は、ただ、自分の書きたい相手を、はっきりさせただけだ。

三年前、あの言葉に折れたときの俺は、たしかに惨めだった。でも、あの惨めさがなかったら、俺は書き続けなかったかもしれない。書き続けなかったら、零時二分(れいじにふん)の、あの「一」とも、出会わなかった。

だから、優奈を、恨む気にはなれなかった。

ただ、もう、俺の物語は、あの子のためには、開かれない。それだけの、ことだった。

その夜、俺は、タワーマンションへ帰った。

暦(こよみ)は、いつものように、俺を迎えた。湯呑みの温度も、指出し手袋も、何もかも、いつもと同じだった。

「おかえりなさいませ、神様」

俺は、原稿に向かおうとして――ふと、手を止めた。

机の隅に置かれた、革表紙の分厚いノート。俺の全話、全更新時刻、全誤字の直しまで記録された、あの聖典ノート。

そして、いつだったか、暦がこぼした言葉。

『わたしは、あの話がなかったら、今、ここにいません。文字どおり、いないんです』

どんな声も届かない夜を、俺のたった一行で越えた人間が、たしかにいる。中庭で、暦は、そう言って泣いた。

俺は、今まで、その言葉の底を、覗くのが、こわかった。

彼女が、たった一人でくぐってきた夜が、どういう夜だったのか。その夜に、俺の話が、どんなふうに滑り込んだのか。それを本当に知ってしまったら、俺は、この人の重さを、まるごと引き受けることになる。逃げ場は、なくなる。

だから、ずっと、聞かずにきた。信仰の言葉として、きれいなまま、遠ざけてきた。

でも、それは、ずるいことだった。

暦は、俺の話を、命綱にしてくれた。全校の前で、俺のために頭を下げてくれた。私怨の刃を、俺の一言で、鞘に納めてくれた。この人は、いつも、俺のぜんぶを引き受けている。

なのに、俺だけが、この人のいちばん深いところから、目をそらしている。

もう、逃げないと決めたばかりだった。優奈から逃げないと決めたのと、同じように。

「暦」

俺は、ペンを置いて、この人のほうを向いた。

「君が、俺の話に、救われたって言った、あの夜のこと。……ちゃんと、聞かせてくれないか」

暦の、灰色の目が、ゆっくりと、見開かれた。

その奥で、長いあいだ閉ざされていた扉が、かすかに、軋んだ気がした。

第33話 もう、君に読ませたい話は

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。