第17話

その一冊のために、財閥が動く

学校一の氷の令嬢が、俺の書いた小説を世に出すために、この国の大人たちを電話一本で動かしている。

タワーマンションの最上階。夜景を背に、如月(きさらぎ)は長い脚を揃えて座り、膝の上のタブレットに視線を落としていた。銀の髪が一筋、頬にかかっている。声は静かで、氷のように平らだった。

「ええ。初版はその数字で構いません。書店の平台は、系列全店で確保してください。……いえ。著者校正を最優先に。作家の時間を、一秒も削らないように」

電話の向こうは、大手の出版社の役員らしかった。俺の名前など知らなかったはずの大人が、はい、はい、と繰り返している。

俺は、ソファの端で、ただ呆然と座っていた。

三年だ。俺は、三年かけて、誰にも届かなかった。バイトで書く時間を削り、安いカップ麺をすすりながら、それでも指を止めなかった。その三年が、この令嬢の、たった数時間の電話で、軽々と、飛び越えられていく。

悔しさは、なかった。ただ、めまいが、した。

俺が三年、爪で壁を引っ掻いても届かなかった高さに、彼女は、当たり前の顔で、手を伸ばす。それが、財閥というものの、正体だった。

通話を切ると、如月は俺の方を向いた。

その瞬間、氷が、ほどけた。

無表情だった顔に、やわらかい熱が差す。灰色の瞳が、俺の作品を語るときの、あの潤んだ光を宿す。

「神様。ご報告があります」

彼女は、テーブルに一枚の資料を滑らせた。俺の新連載――『白銀の姫と、夜明けの物語(はくぎんのひめと、よあけのものがたり)』の、展開計画書だった。

出版。広告。書店展開。メディア露出。俺が三年、指をくわえて眺めるしかなかった場所の全部が、そこに、当たり前のように並んでいた。

「一週間後に、大々的な書籍化を発表します。広告は系列の代理店が、全国の駅と、電車と、書店の一等地に出します。あなたの物語が、この国のいたるところに現れます」

俺は、言葉を失った。

「そんな……大袈裟だ」

やっと出たのが、それだった。

三年間、俺の話を読んでくれたのは、零時二分(れいじにふん)の、たった一人だ。何万人に届けたくて書いていたわけじゃない。その一人に届けば、俺の夜には意味があった。

「規模なんて、いらないんだ。俺は――」

「わかっています」

如月は、静かに遮った。

「あなたが、数字のために書く人でないことは、誰よりも知っています。……でも」

彼女は、資料の上にそっと手を置いた。

「あなたの言葉に生かされる夜が、この国には、まだいくつもあるはずなんです。わたしは、それを一つでも多く、見つけたい。それだけなんです」

その声には、祈りに似た、静かな重さがあった。

俺は、何も言い返せなかった。

規模はいらない、と俺は言った。でも、彼女が言っているのは、規模の話じゃなかった。届く夜の、数の話だった。俺の言葉で、朝まで生き延びる誰かが、一人でも増えるなら。そのために、財閥の全部を使う、と。

その言い方は、ずるかった。俺が、いちばん、断れない言い方だった。

如月は、次のページをめくった。流通の系列図が、細かく書き込まれている。

「印刷は系列の製紙と印刷会社が。輸送はグループの物流網が。……世界は、存外せまいものです」

彼女の指が、図の隅で、ふと止まった。

「二次下請けに、こんな会社もあります。秋月(あきづき)様のクラスの――水城翔太(みずきしょうた)さん。あの方のお父様の会社です」

俺は、その名前で、少しだけ息を詰めた。

翔太。優奈(ゆうな)が、俺を「イタい」と捨てて乗り換えた、あの転校生だ。

まさか、あいつの家が、如月グループの傘の下にあったとは。世界は、本当にせまい。

「……偶然だな」

俺がそう言うと、如月は、資料を閉じた。そして、何でもないことのように、微笑んだ。

「ええ。ただの、偶然です」

その微笑みが、なぜか、ほんの少しだけ、冷たく見えた。

でも、俺はそのとき、深く考えなかった。

これから自分の名前が国中に貼り出される、その現実のほうに、頭がついていっていなかったからだ。

如月は、立ち上がり、窓の外の光の海を見下ろした。

「来週、あなたの世界が変わります」

夜景が、彼女の銀の髪を、青白く縁取っていた。

「財閥の、全力を。……ようやく、お見せできます」

第17話 その一冊のために、財閥が動く

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。