第39話

見つけました

蛍光灯が、じじ、と鳴った。

俺は、その二晩を思い出した。壁が近づいてくる六畳に耐えられなくて外を歩いて、それでも零時二分(れいじにふん)には間に合わせた。三年、休まなかった。熱を出して一日だけ遅れた、あの日のほかは。

指だけは、動いていたんだ。書いている人間のほうが、もう終わりかけているのに。

彼女は、それを読んでいた。画面の向こうから、俺の指の震えを一行ずつ数えていた。

「三日目の、夕方でした」

暦(こよみ)の声が、初めて震えた。

「……迷いは、ございました。その日の朝まで、わたしの読み違いであってほしいと、思っておりました」

「ですが、次の夜が、来ないかもしれない。……そちらのほうが、こわくなりました」

膝の上の指が、また、固く組まれた。

「二晩のあいだに決めたことを、そのまま、いたしました」

「インターホンを、押しました」

「……待て。なんで、俺の部屋が分かったんだ」

この人が持っている住所は、電車で二時間の、あの実家のはずだ。

「その、前の日です」

暦は、言った。

「校門を出ていかれるあなたの、うしろを、歩きました」

息が、止まった。

「一年、同じ教室に、おりました。……一度も、いたしませんでした。あの日が、初めてです」

一年。すぐそこに背中があって、この人は一度も、その後ろを歩かなかったのか。

「あの公園から、歩いて六分。二階の、いちばん奥のお部屋」

淀みなく、暦は言った。一度、歩いただけで。

「郵便受けに、秋月、と。……お名前が、ございました」

そこまで確かめて。それで、この人は、指を上げたのか。

「……何度、押したんだ」

「……覚えて、おりません」

暦は、目を伏せた。

「一度だけと、決めておりました。別の秋月さんがお出になったら、お詫びして帰る。それで終いに、するつもりでした」

「お返事が、ありませんでした。……もう一度、押しました。それでも、ありませんでした」

膝の上で、指が固く組まれていた。

「押すほどに、こわくなりました。お留守なだけだと、思おうと、いたしました。……思えませんでした」

「それで」俺は言った。「どうしたんだ」

「公園へ、参りました」

まっすぐに、と暦は言った。

「……なんで、あそこだって分かったんだ」

「あなたが、お書きになったものです」

暦は言った。

「行き場をなくした方を、あなたは、必ずベンチに座らせておいででした。雨の日も。夜も。……三年分を、数えました。あの公園が、いちばん高うございました」

三年分の本文から、俺の居場所を、確率で出したのか。

雨の中。歩いて六分の道。

「車は、置いてまいりました。付き人も。……誰にも、見られたくなかったので」

「傘だけは、差しておりました。ノートが、濡れてしまいますから」

ビニールに三重に包まれた、分厚い塊。

そしてベンチでは、その傘は俺の頭の上にあって、彼女の肩だけが片方、濡れていた。

一度も、自分のために差していない傘だったのか。

「公園の入り口で、髪を、直しました。息を、整えました」

暦は、少しだけ笑った。泣きそうな、笑い方だった。

「三年、祈った人と、口をかわすのですから」

定規で引いたようにまっすぐな姿勢。乱れひとつない銀髪。俺が氷の令嬢の完璧さだと思っていたあれは、その三十秒前まで雨の中を走っていた人が、公園の入り口で作ったものだったのか。

「なんで、ノートまで持ってきたんだ」

「あなたが、信じてくださらなかったときのためです」

暦は言った。

「これを、お見せするつもりでした。三年分の、零時二分を。……あなたの物語には、読者がいます、と。ひとりだけですが、ここに、います、と」

俺は、天井を見上げた。

そして、思い出した。あの日の夕方から、たった数時間後のあの部屋を。背もたれの深い椅子。壁一面の、俺が資料に使いそうな本ばかりの棚。

あのとき俺は、ぞっとした。優しさにじゃない。数時間で、ここまでやるのか、と。その解像度に、だ。

「暦。あの部屋」

声が、うまく、出なかった。

「……いつから、あったんだ」

暦は、答えなかった。それが、答えだった。

「ベンチに、おいででした」

暦は言った。

「ですから、お声を、おかけしました」

『秋月さん、でしたね。同じクラスの』

一年、同じ教室にいて、初めてかけられた言葉だ。名前を覚えられていた、と俺が舞い上がった一言。

暦は、目を伏せた。

「初めて話しかける同級生の、ふりを。何度も、練習いたしました。傘を差して、風邪を召しますよ、と申し上げて。……あの一言だけで、三十回は、練習いたしました」

「なんで、ふりなんか」

「まだ、不確かだったからです」

暦は言った。

「一年、拝見して、ぜんぶ、合っておりました。ですが、同性同名の可能性は消せません。……ですから、冬野結か聞いて、反応を見て確証を得るつもりでした」

だから、話しかけたのか。傘を差して、風邪を召しますよ、と。

「別の方でしたら」

暦は、続けた。

「傘だけお渡しして、帰るつもりでした。同じクラスの者の、ただの親切と、いうことにして。……それなら、誰も、困りません」

「……別の人じゃ、なかったら」

暦は、すぐには答えなかった。

「お連れするつもりでした」

俺は、彼女を見た。

「あの雨の中から、そのまま、あのお部屋へ。……養わせてください、と申し上げるところまで、決めておりました」

あの夜、万年床の横で三つ指をついて言われた言葉だ。あれは、あの部屋を見せられて、俺の反応を見てから出てきた言葉なんだと思っていた。

違った。あれは、公園のベンチに座る前から、この人の中にあったのか。

「けれど、確認する前に」

暦は、言った。

「あなたが、スマホを、落としかけたのです」

「画面が、こちらを向きました。……『泥の中の星(どろのなかのほし)』の、管理画面でした」

『泥の中の星』。

三年、俺が、たった一人で書いてきた題だ。

「あそこで、聞く前に確信して、ふるえました」

そして、彼女の唇が、あの名前を、象った。

「――冬野、結」

俺は、しばらく、何も言えなかった。

あの日、俺は、奇跡みたいな偶然が起きたんだと思っていた。

偶然は、一つもなかった。

「暦」

聞かなければ、よかったのかもしれない。

「もし、あの日。俺が、本当に、書くのをやめてたら」

「わかりません」

暦は、静かに言った。

「ただ、あなたが消えたら、わたしの朝は、二度と来ないと思いました。……それだけは、わかっておりました」

そして、ほんの少しだけ、微笑んだ。

その微笑みが、俺は、いちばん、こわかった。

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。