第35話

もう朝が来なくていいと思っていた

わたしの家には、たくさんの人がいました。けれど、わたしを見ている人は、ひとりもいませんでした。

如月の令嬢。完璧であることだけが、わたしの価値でした。背筋を伸ばし、正しく笑い、正しく答える。わたしは、道具でした。よくできた、冷たい道具。

笑い方を間違えれば、家庭教師の目が険しくなりました。ピアノの一音を外せば、母の眉が、わずかに動きました。誰も、わたしを叱りませんでした。ただ、静かに、失望する。その静けさが、どんな叱責よりも、深く刺さりました。

だから、わたしは、氷になりました。なにも感じなければ、傷つくこともない。そう思っていました。

いつからか、夜が、長くなりました。朝が来ることが、つらくなりました。また完璧な一日が始まる。また、誰にも見られないまま、正しくあり続ける一日が。

わたしは、ある夜、しずかに決めていました。

もう、朝が来なくてもいい。

部屋は暗くて、時計の音だけがしていました。上等な寝具の中で、世界のどこにも、わたしを引きとめるものは、ありませんでした。指先が、冷たかった。

意味もなく、手もとの画面に触れました。読んでもいない記事の下に、小さな広告が出ていました。

『明日が楽しみになる話が、満載』

わたしには、一つもないものでした。だから、指が、止まったのだと思います。

触れると、無料の小説が並ぶ、小さな投稿サイトに変わりました。「物語の樹(ものがたりのき)」。更新されたばかりの作品が並ぶ新着の一覧に、長い題名が、画面の端まで、ぎっしりと続いていました。

その中で、一つだけ、短い題名がありました。

『泥の中の星(どろのなかのほし)』。

誰にも読まれていない一作でした。ただ、その短さだけが、妙に、目に残りました。

惨めな人が、惨めなまま、それでも明日へ足を引きずっていく。ただ、生きろ、と。そればかりを言い続ける、泥くさい物語でした。洗練された文章では、ありませんでした。けれど、その拙さの一つ一つが、泥の中から絞り出された言葉のようでした。

その中に、一行が、ありました。

『明日を待つ理由が一つでもあれば、人は夜を越えられる』

わたしは、その一行の前で、動けなくなりました。完璧な令嬢が、暗い部屋で、たった一行のために、声を殺して泣いていました。長いあいだ凍らせてきたものが、音を立てて溶けていくようでした。

明日を待つ理由が、一つでもあれば。

――では。たった一つでいいのなら。わたしにも、あるでしょうか。この人は、明日も書くのでしょうか。誰にも読まれていないのに。

答えは、どこにもありませんでした。

――とりあえず、一日だけ。

一日だけ待って、それから考えよう。決めたのは、それだけでした。

そうして、わたしは、朝を迎えました。その日一日を、どう過ごしたのか、よく覚えていません。覚えているのは、日が暮れてから、部屋にいられなくなったことだけです。

一日だけ待つ。そう決めたはずでした。けれど夜になると、その約束の細さが、はっきりと見えてしまいました。たった一行です。会ったこともない人の、たった一行。そんなもので、わたしは、なにを待とうとしているのでしょう。

わたしは、部屋を出ました。エレベーターは、下ではなく、上へ動きました。いちばん上の階の、その先。ふだんは誰も来ない扉を、開きました。

風の音が、耳のなかを、いっぱいにしました。街の光が、ずっと下に広がっていました。きれいだとも、こわいとも、思いませんでした。ただ、遠い、と思いました。

もう、すべて終わりにしよう。そう思って、闇のほうへ、足を進めました。

もう終わるのだ、と悟った瞬間でした。なぜか、あの一行が、目の前で光りました。

――明日を待つ理由が一つでもあれば、人は夜を越えられる

手のなかの画面を見ました。零時に、なっていました。あの話を見届けてからでも、遅くはない。そう思って、待ちました。

日付が変わって、二分。

『泥の中の星』の、新しい話が、更新されていました。

わたしは、息を止めました。風の音が、遠くなりました。その場で、読みました。指がかじかんで、画面が、なかなか動きませんでした。

この人は、今夜も書いたのだ。誰にも読まれていないのに。昨日と同じ時刻に、また一つ、世界へ言葉を放った。生きろ、と。まるで、わたしに言っているようでした。

そんなはずは、ありません。この人は、わたしがここに立っていることを、知りもしないのです。それなのに、知らないまま、この人は、わたしを引き戻しました。そして同時に、明日を待つ理由が、わたしにも、できてしまいました。

明日の零時二分(れいじにふん)に、この人が、また書くかどうか。それを、見届けたい。たった、それだけの理由で、わたしは、扉のほうへ戻りました。持って帰れたのは、零時二分という時刻、それだけです。このときのわたしは、まだ、あなたを神様とは呼んでいませんでした。

次の夜も。その次の夜も。零時二分は、一度も、わたしを裏切りませんでした。

その夜から、わたしは、自分の失点を、数えなくなりました。母の眉は、変わらず動きます。減ったものは、何も、ありません。ただ、書いておく気が、しなくなったのです。

日記は、そこで、終わりました。

代わりに、わたしは、新しいノートを開きました。一ページ目に、日付と、時刻を書きました。

『零時二分』

たった、それだけのことでした。それなのに、書いた瞬間、また、涙があふれました。さっきとは、違う涙でした。

失点。失点。失点。数えるほどに、わたしは小さくなっていきました。なのに、このページには、失点が、一つもありません。

減らすためではなく、待つために、ペンを持ちました。生まれて、初めてでした。

わたしは、そのページに顔を伏せて、泣きました。インクが、にじみました。拭いても、跡は、消えませんでした。

更新された時刻。直された誤字。物語に隠された伏線。そのすべてを、書き写しました。書き写している間だけは、朝がこわくなくなりました。

一冊が、二冊になりました。三冊になりました。万年筆のインクを、何度、詰め替えたでしょう。あなたが毎晩キーボードを打って指を硬くしたように、わたしも、あなたを書き写す指を硬くしました。

会ったことも、声を聞いたこともない人。ノートの厚みは、そのまま、わたしがその人に生かされた夜の数でした。

いつからか、わたしは、あなたを、神様だと思うようになりました。あの夜、屋上から持って帰った時刻が、いつのまにか、そういう名前になっていたのです。

わたしの、零時の神様。

PVが一桁だった、あの三年間。あなたが毎晩、零時二分に更新したその話に、必ず一つだけ付いていた既読。

『PV 1』

その、一。

感想を書く欄も、星をつける場所も、指を伸ばせば届くところにありました。けれど、わたしには、できませんでした。しるしを残すには、名前が要ります。名前を置けば、あなたに、見つかってしまう。誰にも見られない道具でいることだけが、わたしの生き方だったのに。

……いいえ。こわかったのでは、ありません。

しるしを一つでも残せば、あなたは、わたしのために書くようになるかもしれません。わたしの顔を思い浮かべて、わたしの好きそうな話を。それを、わたしは、望みませんでした。

あなたの物語を、あなたの物語のままにしておくために。わたしは、自分を、消しました。

それに――神様に、感想は、送らないでしょう。祈るだけです。

だから、わたしの言葉は、一つ残らず、このノートへ流れ込みました。あなたのコメント欄ではなく、何百回も書き写した、あの一行のとなりへ。

あなたのもとに残せたのは、声のない、たった一つの既読だけ。

あなたの世界を、いちばんはじめに読んだ読者は――わたしでした。

あなたは、わたしの命を救ったことを、知らないまま、書き続けていたのです。

第35話 もう朝が来なくていいと思っていた

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。