第18話

数字が、雪崩れた夜

昨日まで一日に二桁いけば御の字だったPVが、朝起きたら、六桁になっていた。

俺は、寝ぼけた頭で、ノートパソコンの画面を何度も見直した。桁を、指で数えた。

『PV 248193』

見間違いじゃなかった。ゼロが並んでいたあの管理画面に、いま、数字が雪崩れ込んでいる。更新するたびに、末尾がぐるぐると回って、増えていく。

「……壊れたのか、これ」

「壊れていません」

背後から、如月(きさらぎ)の声がした。

いつのまにか、湯気の立つマグカップを手に、俺の肩越しに画面を覗き込んでいる。氷の令嬢が、朝の光の中で、少しだけ得意げだった。

「昨夜、広告が一斉に出ました。駅も、電車も、ネットの端から端まで。あなたの名前が、いま、この国で一番、目に触れています」

その日は、現実感のないまま過ぎていった。

学校では、誰もが「冬野結」の話をしていた。廊下でも、教室でも。あの新作の作者、正体不明の覆面作家、書籍化が即決だってさ、と。

俺のすぐ横で、クラスメイトが、俺の書いた話の感想を、俺と気づかずに熱く語っている。あの覆面作家、絶対に大人だよ、とか。人生何周もしてないと、あんな重い話書けないって、とか。

俺は、笑いそうになるのを、こらえた。その「人生何周もした大人」は、いま、隣で、単語帳をめくっている、ただの高校生だった。

なんとも言えない、変な気分だった。

如月は、教室では、いつもの氷の令嬢だ。俺のことなど、視界にも入れない。完璧な無表情で、窓際の席に座っている。誰も、彼女が「冬野結」の隣にいる女だとは知らない。

俺たちは、学校では他人だ。その綱渡りだけは、今日も、崩れなかった。

夜。タワマンに戻ると、如月が、その日の数字をまとめた紙を差し出してきた。

PV、ブックマーク、評価、書籍化の初版部数。桁が、どれも、めまいがするほど大きい。

「すごい数字です。神様。この国で、これだけの人が、あなたの物語を待っています」

彼女は、心から嬉しそうだった。

俺は、その紙を、しばらく黙って眺めていた。

そして、正直に言った。

「……あんまり、実感がないんだ」

如月が、少しだけ、目を見開いた。

「六桁とか、七桁とか。数が大きすぎて、顔が見えない。俺には、一人ひとりが、どんな夜にこれを読んでるのか、わからない」

これは、驕りでも、謙遜でもなかった。

三年間、俺はたった一人に向けて書いてきた。零時二分(れいじにふん)の、あの一人。顔も名前も知らないのに、その人の夜だけは、なぜか、はっきりと想像できた。

なのに、六桁の数字の向こうには、誰の顔も浮かばない。

「贅沢な悩みだって、わかってる。でも、俺には、この数字が、まだ、俺の話を読んでくれてる『人』には見えないんだ」

言ってから、しまった、と思った。

こんなに手を尽くしてくれた彼女に、水を差すようなことを。

でも、如月は、怒らなかった。

それどころか、その灰色の瞳が、じわりと、潤んだ。

「……やっぱり、あなたは、あなたのままなんですね」

彼女は、そう呟いて、俺の湯呑みに、まだ温かい茶を注ぎ足した。角度まで、いつもと寸分違わない、その手つきで。

その夜、俺はふと、感想欄を開いてみた。

新作の――財閥の総力で、この国じゅうに撒かれた、あの一作の感想欄だ。そこには、言葉が、洪水みたいに、押し寄せていた。

昨日まで、三年間、ただの一件もつかなかった男の画面に、いま、何百という感想が、積み上がっている。

俺は、一つずつ、全部、読んだ。

面白かった。続きが気になる。あのキャラが好きだ。短いのも、長いのも。中には、俺の書いた一行をそのまま引き写して、ここが好きだと打ってくれた人もいた。

嘘のない言葉だと、思った。少なくとも、この人たちは、俺の話を読んで、そう打ってくれた。

なのに。

胸の底から滲んできたのは、喜びじゃなくて、うしろめたさだった。

この人たちは、どうやって、俺の話にたどり着いたんだろう。

駅で。電車で。ネットの、端から端まで。昨夜、如月の家が、金と力で、この国じゅうに俺の名前を撒いた。その回路の先で、この人たちは、俺の話を開いた。

――だとしたら。

この何百の言葉を呼んだのは、俺の書いたものじゃない。如月家の、財力だ。

そう思った瞬間、画面いっぱいの「面白かった」が、すっと、遠くなった。

それでも、俺は、返信ボタンを押した。ありがとうございます、と打つ。また次を読んで、また返す。一件ずつ。読んでいない言葉に、返事はできない。だから、読めるだけ読んで、書けるかぎり、返した。

でも、そのありがとうを打つ指は、どこか、他人のもののようだった。

礼を言うべきなのは、たぶん、俺じゃない。この人たちをここまで連れてきたのは、俺じゃないから。

……嬉しくない、わけじゃない。ただ、この言葉を自分の力で呼んだと、どうしても思えなかった。

数字は、雪崩れる。返せば、返事も、返ってくる。それでも、俺がいちばん灯を届けたかった場所だけが、まだ、真っ暗なままだった。

――ちょうどそのとき。

如月のスマホが、暗がりで、小さく震えた。

彼女は、画面を一瞥すると、すっと、表情を消した。氷が、戻った。

「……どうした」

「なんでもありません」

彼女は、スマホを裏返して置いた。

「少し、詮索好きな人がいるようです。……あなたの正体を、知りたがっている人が」

その声は、また、あの冷たさを帯びていた。

数字は、光だ。強くなるほど、遠くまで届く。

でも、光が強くなるほど、その足元には、濃い影が、落ちる。俺は、そのときは、まだ、影のほうを、ちゃんと見ていなかった。

雪崩れ込む数字に、目が、眩んでいたのかもしれない。

第18話 数字が、雪崩れた夜

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。