第7話

救われました、あなたに

「帰らせてくれ」

俺の言葉に、如月(きさらぎ)はすぐには答えなかった。

夜景を背にして、彼女はしばらく黙っていた。それから、抱えていた革表紙の手記に、そっと視線を落とした。

「……ひとつだけ、聞いていただけますか」

俺は、頷けなかった。ただ、立ち尽くしていた。

「どうして、こんなことをするのか。あなたは、それが知りたいのでしょう」

図星だった。過ぎた優しさの理由がわからないから、俺はこわい。

如月は、顔を上げた。氷点下の令嬢の仮面は、もうそこにはなかった。ただ、大切な告白をしようとする一人の少女が、まっすぐ俺を見ていた。

「わたし」

「わたくし」ではなかった。

「わたし、あなたの小説に――救われたんです」

部屋の空気が、しんと止まった。

夜景の光が、彼女の銀の髪を、淡く縁取っている。その横顔は、静かで、けれど、どこか遠い場所を見ているようだった。

彼女は、それ以上、何も言わなかった。いつ、どこで、何があったのか。どんな夜だったのか。理由になる言葉は、ひとつも続かなかった。

言えないのか。言いたくないのか。それとも、言葉にしてしまうには、まだ深すぎるのか。俺には、わからなかった。

ただ、その一言だけが、確かな重さを持って、俺の胸に落ちてきた。

救われた。

冗談や、大げさな比喩には聞こえなかった。彼女の声には、そう言うしかない何かが、確かに滲んでいた。三年分の記録を、雨の中でも身体より先に庇っていた、あの必死さの正体が、その一言に集約されていた。「救われた」——その一語の下に、彼女は、もっと深いものを、そっくり畳んで隠している。そんな気がした。

聞いてはいけないことに、触れてしまった気がした。彼女がどんな夜を通ってきたのか、俺には想像もつかない。ただ、それが、軽々しく踏み込んでいい場所でないことだけは、わかった。

俺は、言葉を失った。

俺が書いてきたのは、誰にも読まれない、PV一桁の泥臭い話だ。イタい、と笑われる夢だ。

その話が、目の前の彼女を、繋ぎ止めた。

信じられなかった。信じたら、俺は俺の三年を、肯定してしまいそうだった。誰にも読まれない、イタい夢。それを、間違いじゃなかったと、認めてしまいそうだった。そんな資格が、自分にあるとは思えなかった。

怖かったのだと思う。誰かの人生をそんなに左右したという事実が、俺には、重すぎた。

「……そんな、大したものじゃない」

俺は、掠(かす)れた声で言った。

「俺の話は、そんな、誰かの人生をどうこうできるような、そんな力は」

「あなたが決めることでは、ありません」

如月は、静かに、けれどきっぱりと遮った。その声だけは、氷の令嬢の、揺るがない響きに戻っていた。

「あなたの小説に価値があるかどうかを、あなたが決める権利は、ありません。救われたのは、わたしです。だから、これは、わたしが決めます」

反論の言葉が、出てこなかった。

それは、俺がずっと欲しかった言葉のはずだった。誰かに、お前の書くものには意味があると、言ってほしかった。なのに、いざ言われると、逃げ出したくなる。自分が、その言葉を受け取れる人間だと、どうしても思えなかった。

俺は、この部屋にいるのが、耐えられなくなった。彼女の信仰の重さも、自分の話が誰かをそこまで繋ぎ止めていたという事実も、今の俺には、大きすぎた。受け止める器が、まだ、なかった。

たった一日で、多すぎることが起こりすぎた。捨てられ、見つけられ、崇められ。頭も心も、ぱんぱんで、これ以上、何ひとつ入りそうになかった。

一度、帰りたかった。あの、狭くて、何も期待されない、俺だけの場所へ。そこでなら、少しは息ができる気がした。

「……帰る」

俺は、後ずさりながら言った。

「悪い。今日は、帰る。俺の、あの狭い部屋に、帰らせてくれ」

如月は、追ってこなかった。

引き止めもしなかった。彼女は、ただ深く一礼して、穏やかに言った。

「はい。どうぞ、お帰りください」

――あまりに、静かな肯定だった。

もっと縋られたら、よかったのかもしれない。行かないで、と手を掴まれたら、俺はまだ、わかりやすく怯えて、振りほどいて逃げられた。

でも、彼女はしなかった。ただ、深々と頭を下げて、俺を送り出そうとしている。

その静けさが、なぜか、雨よりも冷たく、俺の背中を追いかけてきた。まるで、どこへ帰ろうと、結局は同じことだと――そう確信しているみたいな、静けさだった。

第7話 救われました、あなたに

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。