第30話

あの人たちの、家族は

俺は、財閥の令嬢の手を掴んで、その怒りを止めた。

自分でも、なぜそんなことをしたのか、掴んでから考えた。

暦(こよみ)の手首は、驚くほど細くて、冷たかった。

この人の手を、俺のほうから握ったのは、これが初めてだった。いつも、世話をされ、湯呑みを置かれ、手袋を揃えられる。差し出されるのは、いつも暦のほうで、俺は、ただ受け取っているだけだった。

その手を、俺は、止めた。

「……神様?」

暦が、灰色の目で、俺を見上げる。掴まれたことより、俺がそれを望んでいないことのほうに、戸惑っている顔だった。

俺は、うまく言葉にできないまま、口を開いた。

「やめてくれ。あの会社を、切るのは」

「どうして」

暦の声が、ほんの少し、尖った。

「あの人は、神様の話を笑ったんですよ。それでも、庇うんですか」

「翔太(しょうた)を庇うんじゃない」

俺は、首を振った。

「あの会社には、翔太の父親だけじゃなくて、働いてる人が、大勢いるんだろ。工場で、資材を運んで、印刷して、その給料で、飯を食ってる家族が」

暦が、黙った。

「その人たちは、俺の話を笑ってない。俺のことなんて、名前も知らない。翔太が俺に何をしたかなんて、一生、関係のないところで生きてる」

俺の頭の中に、自分の書いた話の一行が、ふいに浮かんだ。

泥を這ってでも生きろと、俺はずっと書いてきた。惨めでも、報われなくても、それでも生きようとする人間を、全肯定すると。この世界のいちばん底で、泥にまみれて、それでも明日を待っている人間の味方でいたいと。

その俺のために、暦が、誰かの飯の種を、私怨で、上から握りつぶそうとしている。工場で資材を運ぶ人。伝票を打つ人。その給料で、子どもに飯を食わせている人。俺の顔も名前も知らない、大勢の人を。

「そんなの、俺の書いてきたものと、まるっきり逆じゃないか」

暦の手から、力が抜けていくのが、掌に伝わった。

「あいつが俺を笑ったのは、あいつの問題だ。俺が、あいつの父親の会社を潰す理由には、ならない。ましてや、そこで働く、顔も知らない人の生活を、巻き添えにする理由には」

俺は、掴んでいた手を、そっと離した。

「暦の気持ちは、うれしいよ。本気で、怒ってくれてるのは、わかる。……でも、その怒りで、関係ない人を泥に沈めるのは、やめてくれ。俺の神様が、そんなことをする人だって、思いたくない」

言ってから、恥ずかしくなった。神様なんて呼ばれてるのは、俺のほうなのに。

暦は、しばらく、動かなかった。

やがて、暦は、スマホを、机に置いた。

灰色の書類も、そっと、閉じた。

「……ずるい人ですね、神様は」

暦が、ぽつりと言った。うつむいた頬に、髪がかかって、表情は見えなかった。

「わたし、あなたを笑った人間を、絶対に許さないと、決めていました。それが、あなたを守ることだと、思っていました」

顔を上げた暦の目が、潤んでいた。氷点下じゃない。あの、俺の話を語るときの、光の差した目だった。

「なのに、あなたは、あなたを笑った人の、家族の心配をする」

暦は、微笑んだ。泣きそうな顔で。

「そういう人だから――わたしは、あなたの話に、心を動かされたんだと思います」

俺は、何も言えなかった。

俺の書いてきたものは、たぶん、たいした文章じゃない。垢抜けなくて、泥臭くて、笑われても仕方のない話だ。でも、そこに書いた「生きろ」だけは、嘘じゃない。その嘘のなさを、暦は、誰よりも先に、見つけてくれた人だった。

だったら、俺は、その言葉のとおりに生きなきゃいけない。自分の書いた「生きろ」に、恥じないように。

「わかりました。あの会社には、手を出しません。神様が、そう言うなら」

暦は、灰色の書類を、机の引き出しに、しまった。

私怨の刃は、鞘に納められた。俺は、ほっとした。

これでいい、と思った。暦が誰かの暮らしを壊すのを、俺は、見たくなかった。この人の手を、そんなことで汚させたくなかった。俺の神様は、俺の話を、いちばん深いところで読んでくれた人だ。その手は、人を沈めるためのものじゃない。

でも、暦は、引き出しを閉める間際に、ひとつだけ、小さな声で、付け加えた。

「――わたしが、何もしなくても」

その横顔に、俺の知らない、静かな確信のようなものが、浮かんでいた。

第30話 あの人たちの、家族は

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。