第44話

たった一人の、最初の読者へ

俺の新作が公開されたのは、八月八日の零時だった。

もう、PVを気にする必要はなくなっていた。投稿すれば一晩で何万という人が読む。書籍化も続刊も勝手に決まっていく。あのころ、指先を冷やしながらゼロの並ぶ管理画面を更新していた男は、もうどこにもいない。

それでも、俺は零時に投稿した。

昔と同じ時刻に。

反映のラグで、表示されるのは二分後。

その、たった二分を、俺は今も大事にしている。何万のPVが付こうと、俺にとっての本当の意味はあの二分の中にある。

それに、今度の新作はこれまでと違った。異世界の姫君の話じゃない。俺と、あの人の話だ。あの零時二分から始まった、俺と君の、ぜんぶ。書き出しの一行は、もう決めていた。

――学校一の氷の令嬢が、俺の部屋にいる。

作品の名前は伏せてある。けれど俺は、その物語を、心の中でたった一つの呼び名で呼んでいた。零時に更新を待ちつづけた人が、俺にくれた名前で。

「先生」

暦(こよみ)が、俺のとなりに座った。

タワーマンションの窓の外は、夏の夜景だった。二人で一つの画面をのぞき込む。

零時二分(れいじにふん)。

新作の最初の話が、世界へ出ていった。

「読んでも、いいですか」

「君が、いちばん最初だ」

暦は頷いて、画面に指を伸ばした。

三年間、たった一人で俺の物語を読んできた人。ゼロの夜に、必ず一を灯してくれた人。その人が今も、いちばん最初に俺の言葉を受け取ってくれる。零時二分の、となりで。

彼女の指が、本文の前で、止まった。

いちばん上に、俺が置いた、一行の献辞。

暦の瞳が、それを、追いかけた。

『――たった一人の、最初の読者へ』

暦は、しばらく、動かなかった。

やがて、その灰色の瞳から、涙が、一粒、こぼれた。

いつか、暗い部屋で、たった一行のために泣いた夜と、同じ涙だったのかもしれない。けれど、あのときとは、まるで違う涙だった。

もう、朝が来なくていい、なんて、思っていない顔だった。

「わたしの、ことですか」

「ほかに、誰がいる」

俺は、笑った。

「三年間、俺の話に、いちばん最初に付いてくれた、たった一つの一。……あれがなかったら、俺は、この一行を書ける場所まで、来られなかった。だから、これは、君に捧げる話だ」

俺の物語の凄さなんて、俺にはよくわからない。

文章がうまいわけじゃない。財閥が押し上げた数字も、俺のものじゃない。書籍化も平積みも、正直、いまだにぴんと来ない。何万というPVも、俺の手のひらの上ではただの数字だ。あたたかくも、冷たくもない。

はじめて、たった一つの「1」を見たときの、あの、指先があたたかくなる感じ。あれだけが、俺にとっての本物だった。

でも、ひとつだけ、確かなことがある。

俺の書いた言葉が、一人の人間を、生かした。

もう朝が来なくていいと思っていた夜に、たった一行が、その人を繋ぎ止めた。零時二分の更新が、その人の、明日を待つ理由になった。

数字でも、名声でもない。

一人の命を、生かした。

それだけが、俺が三年、書き続けた意味の、全部だった。

暦は、涙を拭って、微笑んだ。

そして、いつかの夜と同じ言葉を、けれど、まるで違う響きで口にした。

「明日を待つ理由が、一つでもあれば」

彼女は、俺を見た。

跪(ひざまず)きも、氷りもしない、ただの、となりの読者の目で。

「人は、夜を越えられる。……先生の、いちばん好きな一行です」

「ああ」

俺は、頷いた。

「君の、いちばん好きな一行でもあるだろ」

暦は笑って、それから、画面の隅の日付に目を留めた。

「……なぜ八月八日を、連載開始日に選ばれたのですか」

「……内緒だ」

八月八日。丸が二つ並んで、指輪が二つ並んでいるように見えるから、そう呼ぶ人がいるらしい。ペアリングの日、と。それに、8は、横に倒せば、終わらないという記号になる。

これから先ずっと、この人に新しい話を届けるつもりの男が、その一話目を出す日として。これ以上の日付を、俺は思いつかなかった。……口が裂けても、言えないけれど。

「そうですか」

暦は、それ以上は聞かなかった。ただ、口もとが、ゆるんでいた。

零時二分の更新を、一秒の狂いもなく記録しつづけてきた人だ。この日付の意味に気づかないわけが、なかった。

外では、夏の夜が静かに更けていた。

暦は、画面をスクロールして、俺の新しい話を読み始めた。となりで、その横顔を、俺はそっと盗み見た。ここで少し、眉が動く。ここで、口もとがゆるむ。たった一人の読者が、俺の言葉を、一行ずつ受け取っていく。

その横顔を見ているだけで、俺は、また書けると思った。

零時二分は、もう、孤独な祈りの時刻じゃなかった。二人で次の話を待つ、いちばんあたたかい時刻に変わっていた。

この物語を、俺は、たった一人のために書いた。けれど、この物語が、いつか、まだ見ぬ誰かの零時二分にも届くかもしれない。

俺は、また、書くだろう。

彼女は、また、いちばん最初に、読むだろう。

一生分の連載を、約束したから。

神様と信者じゃなく。作家と、読者として。

俺たちの物語は、ここから、ようやく、始まっていく。

第44話 たった一人の、最初の読者へ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。