第9話

書くことだけ、考えていてください

目が覚めたら、俺の右手に、指の先だけ出た手袋がはめられていた。

タワーマンションの最上階。見慣れない天井。羽毛布団の重さ。夢だと思いたかったが、指先の感触が、これは現実だと告げていた。

昨夜、俺はここに泊まった。断ろうとして、断りきれなかった。あのアパートには、もう帰る気力が残っていなかった。

「おはようございます、神様」

声のほうを見る。如月(きさらぎ)が、枕元に膝をついていた。銀の髪が、朝の光を通してほのかに輝いている。

「その手袋、寝ている間に。手が冷えると、キーボードを打つとき動きが鈍るそうですね。指先で操作しやすいよう、指の腹だけ出るものを選びました」

俺は自分の右手を見た。打ち慣れて硬くなった指先の上に、やわらかい布が乗っている。サイズが、ぴったりだった。

「なんで、俺の指のサイズ」

「三年、見てきましたので」

如月は、当たり前のことのように言った。まるで、天気の話でもするみたいに。

三年。俺が、PV一桁のまま、誰にも読まれずに書き続けた、その三年を。この人は、ずっと、見ていた。俺の、指の形まで、覚えるくらいに。

背筋が、ぞくりとした。だが、指先は、あたたかかった。

朝食のテーブルには、湯呑みが一つ、置かれていた。

俺が手を伸ばすと、湯呑みは、指がそのまま回る位置にあった。腕を動かさなくても、座ったまま持てる。置き場所が、計算されていた。

「六十度まで落としてあります。猫舌の方は、六十五度を超えると熱いと感じるそうなので」

「……猫舌なの、なんで知って」

「感想欄で、一度だけ書いていらしたので。『熱いラーメンが食べられない主人公』の話のあと、『これは実体験です』と」

俺は、絶句した。三年前の、一言だ。PVも一桁の話の、誰も見ていないはずの、投稿者コメント。

それを、彼女は覚えている。三年前の、たった一言を。俺自身が、とっくに忘れていた言葉を。

背筋が、ひやりとした。同時に、胸の奥が、じわりと、あたたかくなる。この二つの感情が、同時に来ることを、俺は昨日から、何度も味わっている。

如月は、俺の向かいには座らなかった。少し離れた場所で、静かに立って、俺が茶を飲む様子を見ていた。給仕をする人の目だった。いや、もっと言えば、信者が、祭壇を見守るような目だった。

「あの」と俺は言った。「そんなに、かしこまらなくても」

「いいえ」

彼女の声は、揺るがなかった。

「神様には、書くことだけを考えていていただきたいのです。お金のことも、食事のことも、洗濯のことも、ぜんぶ、わたしが引き受けます。あなたが煩わされていい雑事は、この世に一つもありません」

わたし、と彼女は言った。学校で見る、氷のような「わたくし」ではなかった。

俺は、茶を飲んだ。熱くもなく、ぬるくもなかった。温度は、正確だった。

こんなふうに世話をされたことは、生まれて一度もなかった。実家は、貧しかった。俺は早くに家を出て、この街でひとり、自分のことは自分でやるのが当たり前で育った。だから、この過剰な優しさが、どう受け止めればいいのか、まるで、わからない。

昼過ぎ、俺は自分のアパートに戻ろうとした。着替えも、充電器も、書きかけのプロットも、全部あっちにある。それに――ここにいると、息が詰まる。優しさで、詰まる。

玄関へ向かうと、如月がついてきた。止めるのかと思った。

違った。

「行ってらっしゃいませ」

彼女は、ドアを開けて、頭を下げた。

「鍵は、かけていません。いつでも、どこへでも、行ってくださって構いません」

拍子抜けした。てっきり、引き止められると思っていた。

「あの部屋の家賃は、今月ぶん、こちらで清算しておきました。電気とガスも止まらないように。ご実家への仕送りも、滞りのないよう手配済みです」

「充電器も、着替えも、同じものをこちらに揃えてあります。……お部屋のものには、触れておりません。書きかけのものが、ありましたので」

足が、止まった。

俺は、月末になると、実家に少しだけ金を送っている。バイト代を削って。誰にも言ったことのない、俺のいちばん柔らかいところだ。

それを、彼女は、もう埋めていた。

「あなたが、どこへ帰っても、困らないように」如月は微笑んだ。「執筆に必要なものは、なんでも、お持ち帰りください」

ドアを、開けた。

開けたのに、俺はもう、どこへ帰ればいいのか、わからなくなっていた。

第9話 書くことだけ、考えていてください

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。