第23話

近づいてくる、足音

いちばん近くにいた人間が、いちばん危険だと、俺は、忘れていた。

放課後の教室。窓の外は、もう、暮れかけていた。日が落ちるのが、ずいぶん、早くなった。俺が帰り支度をしていると、優奈(ゆうな)が、俺の机の前に立った。

三年間、俺を「イタい」と嗤い、翔太(しょうた)に乗り換えて、俺を捨てた幼馴染。もう、口をきくこともなくなっていた、その優奈が。

「ねえ、蓮(れん)」

久しぶりに呼ばれた、その名前に、俺は、身構えた。

「あんた、まだ、小説、書いてる?」

心臓が、跳ねた。

俺は、努めて、平静を装った。

「……なんで」

「ネットでさ、話題じゃん。冬野結って覆面作家。特定班が、いろいろ言ってるの」

優奈は、スマホの画面を、俺に見せてきた。

そこには、正体探しの書き込みが、ずらりと並んでいた。更新時刻が学生の生活リズムだとか、地方の書店展開が特定の地域に偏っているとか。そして――作風の分析。

『泥を這ってでも生きろ、っていう、異常に泥臭い全肯定系』

優奈の指が、その一文で、止まっていた。

「あたし、これ読んで、ふっと、思い出したの」

彼女の目が、俺を、じっと見た。

「あんたが、昔、あたしに読ませてきた話。あれも、こういう感じだったよなって」

俺は、覚えている。中学の頃、初めて書いた話を、勇気を出して、優奈に読ませた。感想が、ほしかった。たった一人でいい、誰かに、届いてほしかった。

返ってきたのは、「暗いね」の一言だった。それでも、俺は、書くのをやめなかった。やめられなかった。

その、いちばん古い読者が、いま、俺の前で、俺の正体を、言い当てようとしている。皮肉な話だった。

俺は、血の気が引くのを感じた。

優奈は、俺の三年間を、いちばん近くで見てきた人間だ。俺がどんな話を書いていたか、いつ更新していたか、なんとなく、知っている。

「イタい」と切り捨てた、あの話の作風を、皮肉にも、優奈は、覚えていた。

そういえば、と俺は思い出す。優奈は、昔、俺のノートパソコンの画面を、覗き込んだことがあった。何それ、暗い、と鼻で笑って、それきりだった。でも、覗いた、その一瞬を、彼女は、忘れていなかったらしい。

いちばん近くにいた人間の記憶ほど、あとになって、鋭い刃になる。

「まさか、と思うんだけどさ」

優奈は、少しだけ、声をひそめた。

「あの底辺だった蓮が、今バズってる冬野結、なわけ……ないよね?」

その口ぶりには、まだ、半信半疑の響きがあった。ありえない、と思いながら、でも、と、疑っている。天秤が、まだ、揺れている。

ここで、俺が、少しでも動揺を見せたら。

天秤は、一気に、傾く。

「……買いかぶりすぎだろ」

俺は、椅子の背にかけたコートを取って、鞄を肩にかけ、席を立った。

「俺が、あんな才能あるわけないだろ。三年やって、鳴かず飛ばずだった男だぞ。知ってるだろ」

自分で言って、胸の奥が、ちりっと痛んだ。それは、嘘じゃない。でも、いま、真実を隠すために使うと、ずいぶん、みじめな響きがした。

三年間、鳴かず飛ばずだった、という事実。かつては、俺を刺す言葉だった。それを、いまは、盾に使っている。守りたいのは、名声じゃない。あの静かな夜と、たった三件の感想を書いてくれた、誰かの顔だった。

優奈は、「……そりゃ、そうか」と、ほんの少し、力を抜いた。

でも、その目の奥には、まだ、消えない火種が、残っていた。

昇降口を出ると、吐いた息が、白かった。今年、初めてだった。

その夜、タワマンで、俺は、暦(こよみ)に、優奈のことを話した。

暦の顔から、また、温度が消えた。

「優奈さん、ですか」

作品を「イタい」と切り捨てた、もう一人の名前。暦が、けっして、忘れていない名前だ。

「勘づかれかけてる。……時間の問題かもしれない」

俺が言うと、暦は、静かに、スマホを取り出した。

そして、あるアカウントの投稿を、俺に見せた。

優奈の、SNSだった。

さっき別れたばかりなのに、彼女は、もう、投稿していた。

『幼馴染がバズ作家かもしれない件。心当たりありすぎて震えてる』

俺は、画面を、凝視した。

まだ、名前は、出していない。確信も、していない。

でも――足音は、もう、すぐそこまで、来ていた。

暦が、静かに、画面を消した。

「……明日、何かが、起きるかもしれません」

その声は、氷のように、静かだった。

第23話 近づいてくる、足音

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。