第36話

でも、1だった

暦(こよみ)が語り終えたとき、俺はしばらく動けなかった。

六畳の部屋はしんとしていた。蛍光灯だけが、じじ、と鳴っていた。

俺の手の中には、まだあの日記があった。三年前で途切れて、その先が白紙のままの、布張りの一冊。

その途切れた意味が、今、わかってしまった。

あの夜、暦は暗い部屋で、朝が来なくていいと思っていた。そして、たまたま開いた俺の話のたった一行に繋ぎ止められた。

日記が途切れたその先を、あちらのノートが引き継いでいたんだ。

あの日、書斎で見た、いちばん古い一冊の最初のページ。あの乾いた水滴の跡。この一冊が白紙になったところへ、そのまま、あのページが継ぎ足されていた。

自分を採点する場所をやめて、零時二分(れいじにふん)を待つ場所へ。彼女は、ペンを持ち替えたんだ。

三年間、俺にはたった一人の読者がいた。

顔も名前も知らなかった、あの「1」。何を上げても、どんなに拙くても、日付が変わってぴったり二分に必ず付く、たった一つのPV。

俺は、その一に何度救われたかわからない。

同じ頃に始めた書き手は、半年ももたずに更新が途絶え、アカウントごと消えていった。数字が伸びなければ、人は書けなくなる。それがこの世界の当たり前だった。俺も何度も、やめようと思った。

それでも俺が三年、指を止めなかった理由はひとつだけだった。

ゼロじゃない。

「……でも、1だ」

俺は、いつもそう呟いていた。

誰も見ていなくても、ここに一人はいる。それだけで、俺は明日もまた零時に投稿ボタンを押せた。あの一は、俺にとって世界そのものの重さがあった。

どんな夜も、あの人だけは遅れなかった。零時二分。一秒の狂いもなく、三年間、一度も欠けたことがない。

俺は、ずっと思っていた。

――どんな人なんだろう、と。男か、女か。俺と同じ歳か、ずっと年上か。俺の泥臭い話の、どこを気に入ってくれているのか。

その人は、あの梅雨の日に、現れた。優奈(ゆうな)に捨てられて、ずぶ濡れのまま、もう何もかもどうでもよくなっていた俺の頭の上に、黙って傘を差して。

誰なのかを俺が自分で確かめたのは、その少しあとだ。零時二分(れいじにふん)。俺の背中側で、その人は、俺の一行目を読んでいた。

けれど俺は、そこでわかった気になっていただけだった。

まさか、その人の命を俺の書いた話が救っていたなんて。……思いもしなかった。

その、俺の話に命を救われた人が、今、目の前にいた。

「……俺の話が」

声が、うまく出なかった。

「あんな、誰にも読まれなかった、泥くさい話が。あの夜の、君の命を……この世界に、繋ぎ止めていたのか」

「はい」

暦は、静かに頷いた。

「あなたの、あのたった一行がなければ。わたしは、あの夜を、越えられませんでした」

胸の奥が、熱くなった。

俺は、ずっと勘違いしていた。

暦は、俺に救われたと言った。俺の物語が彼女の命綱だったと。だから俺は、自分が彼女に何かを与えた側なんだと、どこかで思っていた。

違った。

あの三年間、俺のほうも、暦に生かされていたんだ。

誰にも読まれないゼロの夜を、あの「1」がいたから越えられた。俺が「生きろ」と書いた言葉で暦が夜を越え、その暦がくれた一で、俺もまた次の夜を越えていた。

俺たちは三年間、互いの命綱を握り合っていた。

零時二分の、両側で。

思えば、俺が「でも、1だ」と呟いていたあの夜、画面の向こうの暗い部屋で、同じ数字を見つめていた人がいたんだ。俺の「1」と、彼女の「あなた」。まるで違う場所から、俺たちは同じ一つの数字を見ていた。

顔も名前も知らないまま。それでも、世界でいちばん近くにいた。

「……なんだよ、それ」

俺は、笑おうとして失敗した。目の奥が熱くて、うまくいかなかった。

「俺が、君を救ったんじゃない。俺だって、あの1があったから、ここまで書いてこられたんだ。おあいこじゃないか。ずっと、おあいこだったんだ」

暦の灰色の瞳が、大きく揺れた。

そして、彼女の頬を、涙が一粒、伝った。

氷の令嬢が泣いていた。学校では誰にも見せたことのない顔で。三年分の零時二分を、全部ほどくみたいに。

俺は、そっと手を伸ばそうとした。

けれど、その手が途中で止まった。

暦が、畳に三つ指をついたからだ。

「ありがとうございます、神様。あなたのおかげで、わたしは、今日まで生きてこられました」

深く、頭を垂れる。銀の髪が畳に流れた。

その姿は、あまりにも美しくて。

嬉しさと同じだけのこわさが、俺の胸にこみ上げてきた。俺は、この人の命を生かした。けれど、それは同時に、この人の命を俺一人に繋いでしまったということだった。

そして――あまりにも、危ういと、俺は初めて気づいてしまった。

第36話 でも、1だった

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『零時の神様』は、PV一桁の底辺WEB作家と、彼の小説を崇める氷の令嬢の物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。