第3話

変なの、この家

「……おはよう、ございます」

最初に降りてきたのは、七瀬さんだった。昨夜とは別人みたいに、髪を巻いて、きちんとしたオフィスの服装で。新人OLの、精一杯の「ちゃんとした自分」だ。

でも、目元がまだ少し赤い。たぶん、朝から緊張しているのだろう。

「おはようございます。朝ごはん、食べていけますか」

「あ……でも、わたし、いつも食べないで……」

「一口だけでも。これ、食べると頭が回りますよ」

俺は、温かい味噌汁の椀を、そっと差し出した。

七瀬さんは、おずおずとそれを受け取って、すすった。ふう、と。肩から、力が抜けるのがわかった。

「……あったかい」

それから、ぽつりと、独り言のように零した。

「……今日、また、電話応対で怒られるんだろうな」

俺は、何も言わなかった。ただ、ご飯を軽くよそって、彼女の前に置いた。

口を挟まないのは、登美さんから教わった、というより──昔の仕事で、自然と身についた癖だった。人は、答えが欲しいんじゃない。ただ、聞いてほしいだけのことが、多い。

「いってらっしゃい。気をつけて」

七瀬さんは、味噌汁を飲み干して、ぺこりと頭を下げた。少しだけ、背筋が伸びていた。

「味噌は、発酵食品ですからね。ねぎの香りの成分も、体にいいんですよ」

そういう小さなうんちくを、俺はつい喋ってしまう。住人にとっては、どうでもいい話だろうに。

でも七瀬さんは、味噌汁を両手で包んだまま、ふっと笑ってくれた。その笑顔を見られただけで、俺は今日の分の働きを終えた気分になった。

次に降りてきたのは、学生の小田切さんだった。スマホを片手に、画面を見ながら、ソファにどさりと座る。

「ねー、おじさん」

俺のことを、彼女はもう「おじさん」と呼ぶことに決めたらしい。それはそれで、まあ、正しい。

「はい、なんでしょう」

「これ。SNSでバズってる『追いチーズの背徳トースト』ってやつ。めっちゃ美味しそうじゃない? 食べたいなー」

彼女はスマホの画面を、俺のほうに向けようとした。俺は、新聞をめくりながら、画面は見ずに答えた。

「へえ。チーズと、はちみつですか」

「え、なんでわかったの」

「におってきそうな音でしたから」

俺は立ち上がって、台所へ向かった。

朝にもらってきた一斤が、まだ切らずに残っている。チーズとバターは、冷蔵庫。

はちみつは、棚の奥だ。登美さんの字で日付の書かれた、古いラベルの瓶。半分ほど、白く結晶していた。

小鍋に湯を張って、瓶ごと、ことりと沈める。

──登美さん。あなたも、これを誰かに焼いてやっていたんですか。

その間に、一斤から厚めに一枚。とろけるチーズをたっぷりのせて、バターも少しだけ。トースターに入れれば、じきに、キツネ色の焦げ目が立ちはじめる。焼けたパンとチーズの匂いが、台所いっぱいに膨らんだ。

瓶を引き上げると、はちみつは、とろりと透きとおっていた。仕上げに、つうっと。

「どうぞ。家の材料で作るほうが、たぶん美味しいですよ」

ことん、と。小田切さんの目の前に、湯気の立つトーストを置いた。とろりと溶けたチーズの上で、はちみつが、つやつやと光っている。

小田切さんは、スマホを置いた。熱々のトーストを一口齧って──目を見開いた。

「……っ、なにこれ。お店のやつより、ぜんぜん美味しいんだけど」

「チーズの旨味と、はちみつの甘みが、焼くと立つんです。温かいうちが、いちばん美味しい」

小田切さんは、もう一口齧って、それから、ちらっと俺を見上げた。

「……おじさん、なんなの」

「ただの管理人ですよ」

リビングには、いくつかの「ちいさなルール」がある。俺は、住人たちに、ぽつぽつとそれを説明した。

二階は、女性のみなさんの居住エリア。男子禁制──つまり、俺は二階には上がらない。俺のテリトリーは、一階の台所と、リビングの奥の管理人室だけ。

「俺は、台所の人間ですから。安心してください」

それから、リビングの壁の黒板を指した。

「ここに、夕飯が要るか要らないか、書いておいてくれると助かります。チョークで、ひと言でいいので」

「えっ、アプリとかLINEじゃなくて?」

小田切さんが、目を丸くした。

「俺、スマホ、持ってないんですよ」

四人が、ぴたりと止まった。

「……は?」

ちょうど降りてきた遠野さんが、思わず、という顔で声を出した。

「持ってない、って。連絡、どうやって……」

「管理人室の、固定電話だけです。あの黒いやつ」

「えっ、嘘でしょ」

「通知に追われる生活は、前の職場で、もう終わりにしましてね」

俺は、できるだけ軽く言った。

本当は──スマホの通知音が鳴るだけで、今でも心臓がばくばくして、冷や汗が出る。前の仕事は、それくらい、心と体を擦り減らした。でも、そんな深刻な話は、朝の食卓には似合わない。

「この家と、みなさんの声が聞こえる距離があれば、俺はもう十分なんです」

「でも──」

漫画家の真壁さんが、ぼそりと口を開いた。昨夜、ほとんど喋らなかった人だ。締切前なのか、ひどく眠そうな目をしている。

「あたし、在宅で仕事してて。ネットがないと、死ぬんですけど」

「ああ、それは大丈夫です」

俺は頷いた。

「みなさんが使うWi-Fiは、いちばん速いやつを業者に頼んで、入れてあります。動画も、オンラインの作業も、引っかからないはずです」

真壁さんが、きょとんとした。

「……管理人さん、スマホ持ってないのに?」

「俺は要らないんです。でも、女の子たちが不便なのは、違うでしょう」

「……自分はスマホ捨ててるのに、住人には最速のWi-Fi、ってこと?」

「ええ。歪ですよね、我ながら」

俺は、頭を掻いた。

真壁さんは、しばらく、俺の顔をじっと見ていた。職業柄なのか、人をよく観察する子だ。それから、何かを書き留めるみたいに、ふっと小さく頷いた。

「……変なの、この家」

そう言いながら、彼女の口元は、少しだけほどけていた。

変なの、で、いい。俺は、そう思った。この家の朝が、こんなふうに少しずつほどけていくのを、ただ、嬉しく眺めていた。

──その穏やかな数日が、ある夕方の来客で、思いがけずざわめくことになるとは。このときの俺は、まだ知らないでいた。

第3話 変なの、この家

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。