第42話

情けなくなんか、ないです

誰も、笑わなかった。

代わりに。

「……情けなくなんか、ないです」

最初に声を発したのは、まひるさんだった。新人で、毎日トイレで泣いている、いちばん泣き虫の子。その子が、ぼろぼろと涙をこぼしながら、言った。

「私も、毎日、逃げ出したいって、思ってます。会社、行きたくないって。でも、私のは、ただの甘えで。管理人さんは、ずっとずっと、頑張った末に、限界が来たんですよ。それは……それは、逃げじゃ、ないです」

「まひるさん」

「人を幸せにして、自分は、空っぽになって。それでも、ここで、私たちに、ご飯を作ってくれて」

まひるさんは、しゃくりあげた。

「そんなの──疲れて、当たり前です。当たり前ですよ……」

俺は、何も言えなかった。

怜さんが、まひるさんの背をそっとさすった。そして、低い声で言った。

「……私たちが、毎晩、この家に逃げ帰ってこられるのは」

怜さんの目も、潤んでいた。

「管理人さんが、一度、ちゃんと、本気で疲れた人だからだよ。疲れた人の気持ちが、分かる人だから。だから、私たちは、ここで、息ができるの」

その夜、四人が二階へ上がったあと。

俺は、ひとり、管理人室の押し入れを開けた。

奥に、もう一つ。開けられずにいた、小さな箱があった。登美さんの遺品箱の、いちばん底に入っていた、古い菓子の缶。

あの第一話の夜、手紙を読んで泣いて、立ち上がった俺は──実は、この缶だけは開けられずにいた。

手紙の、その先。登美さんが、本当に最後に、俺に遺したもの。それを見るのが、ずっと怖かった。

でも、今夜なら。人を幸せにする仕事に疲れた、と。ようやく口に出せた、今夜なら。

俺は、震える指で、錆びた蓋をこじ開けた。

缶のなかには、一冊の古い手帳が入っていた。登美さんの、日記だった。ところどころ、頁が破れ、染みが滲んでいる。

俺は、最後の頁を開いた。登美さんが、亡くなるほんの少し前に書いたらしい、震える字。

『周さんへ。

あなたを拾った日のこと、今でもよく覚えています。

雨のなか、あなたは、まるで叱られるのを待つ子どものような顔で、わたしの白粥を、すすって、泣きました。

ああ、この人は、ずっと、誰かに与えてばかりだったのね、と思いました。

与えて、与えて、もう、空っぽになって。それでも、自分が誰かに何かをもらうことを、許せずにいる人。』

俺は、頁をめくる手を止めた。胸が、苦しかった。

なぜ、この人には、こんなにも、何もかも見えていたんだろう。

『だから、わたしは、あなたに小麦を託しました。

言葉を持たない、あの子のために、ご飯を作りなさい、と。

見返りを求めず、ただ、目の前の命のために。

そうやって、あなたが、料理の喜びを、取り戻してくれたら、と。』

『でもね、周さん。

それでも、まだ、足りないのです。』

『あなたは、これからも、誰かに与え続けるでしょう。

傷ついた女の子たちの、夜を照らして。

それは、とても、尊いことです。

でも、わたしは、心配なのです。

あなたは、与えることは知っているのに、

受け取ることを、知らないから。』

俺の指が、頁の上で止まった。

『いつか、あなたが、本当に疲れてしまった日に。

どうか、誰かに、甘えてください。

「助けて」と、言ってください。

あなたが、誰かに何かをもらって、

「ありがとう」と泣ける日が、来ますように。』

最後の一文は、少し大きな字で書かれていた。まるで、いちばん伝えたかった言葉のように。

『あなたが、誰かに甘えられる日が来ますように。』

俺は、その一文を、何度も読んだ。

足元で、小麦が心配そうに、俺の膝に顎を載せた。その金色の頭を撫でる。

「……登美さん」

掠れた声が、漏れた。

「俺は、まだ、それが、できません」

誰かに、甘えるなんて。「助けて」と言うなんて。そんなこと、俺の人生に、一度もなかった。

俺は、与える側の人間だから。それしか知らないから。

窓の外で、雪が、しんしんと降り積もっていた。

手帳を、そっと胸に抱いて。俺は、その夜、長いこと、灯りを消せずにいた。

朝が来なかった。

正確には、朝は来た。窓の外は雪明かりで、いつもより白かった。でも、俺の体は起き上がらなかった。

おかしいな、と思ったのは、布団の中で目を開けた時だった。

いつもなら、夜明け前に目が覚める。住人の朝食を作るために。いつのまにか体に染みついた習慣だ。

なのに、今朝は。体が鉛のように重くて、指一本動かすのも億劫だった。額に手を当てると、じっとり熱かった。

「……あれ」

声が掠れた。喉の奥がひりひりする。熱だ。それも、けっこうな。

立ち上がろうとして、めまいがした。視界が、ぐらりと傾く。

──まずいな。朝ご飯を作らないと。

そう思うのに、体が言うことを聞かない。

たぶん、ここ最近のいろいろが重なったのだろう。怜さんのお母さんを、あの玄関先で送り出した夜に、久しぶりに「あの頃の顔」を出した消耗。女将の報せ。過去を初めて口に出した追体験。そして、登美さんが遺した言葉の重み。

ぜんぶ、いっぺんにのしかかってきた。

ぷつん、といったあの夜と、同じ感じだった。ただ、今度は、海に投げ捨てるものも、逃げる先もない。

俺は布団の中で、ただ目を閉じた。少しだけ。少しだけ休んだら。そう思った、はずだった。

「──管理人さん!」

肩を揺さぶられた。目を開けると、まひるさんの半泣きの顔が、すぐそこにあった。

「よかった、目、覚めた……! 管理人さん、朝ご飯の時間になっても、出てこないから……ドア、叩いても返事ないし……ご、ごめんなさい、勝手に、入って」

管理人室のドアが、開いていた。俺のテリトリー。住人が滅多に踏み込まない、離れの部屋。そこに、四人が揃って立っていた。

「い、いえ。すみません」

俺は、起き上がろうとした。

「朝ご飯、すぐ──」

「寝てて!!」

怜さんの鋭い声が、飛んだ。仕事で部下を叱る時の、あの声だった。俺は思わず、布団に押し戻された。

「……ねつ、ある」

ゆめちゃんが、俺の額に手の甲を当てて、青ざめた。

「すごい熱。三十九度、ある、これ」

「だ、大丈夫ですよ。ちょっと、休めば」

「大丈夫じゃないでしょ!!」

四人が、声を揃えた。

第42話 情けなくなんか、ないです

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。