第46話

それぞれの、一歩

冬が、終わっていた。

中庭の梅が散って、芽吹きの匂いが風に混じりはじめた頃。俺は朝の台所で出汁を引きながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。

去年の春、この家の固定電話の線を震える指で差し込んだ。あれから一年が経とうとしている。あの夜、警戒の目で俺を見ていた四人は、今もここにいる。

そして俺は相変わらず、ただの賄い係をやっている。

その日の朝、最初に下りてきたのは怜さんだった。

スーツ姿。けれど、以前のような擦り切れた目ではなかった。

「おはようございます。今日、早いんですね」

「うん。……ちょっと、報告があって」

おちょこを傾けるのが似合うこの人が、台所のカウンターにこつんと頬杖をついた。

「私ね、異動、断ったの」

「断った」

「うん。上が、管理職の話を持ってきてくれて。表に立つポジション。前の私なら、飛びついてた」

怜さんは、出来たての出汁を湯呑みでひと口もらって、息を吐いた。

「でも、私、気づいたの。私が本当に好きなのは、人前で笑うことじゃなくて、企画を裏で組み立てることだって。台割を作って、数字を読んで、若い子のミスを拾って。地味だけど、それが、私の仕事だって」

「いい仕事ですよね、それ」

「……でしょ」

怜さんは、ふっと笑った。

「裏方でいい、って言えるようになるのに、三十一年かかった」

そう言って、彼女は空になった湯呑みをことりと置いた。

「管理人さんの、おかげかもね」

「俺は、何も」

「うん。何もしてない。ただ、ご飯作って、聞いてただけ。……それが、よかったの」

スーツの背中が玄関へ向かう。以前のように玄関で靴を脱ぎ散らかす人が、今朝はきちんと爪先を揃えて出ていった。

昼前、固定電話が鳴った。黒い受話器を取ると、聞き慣れない若い男の声だった。

「あの、すみません。七瀬まひるさんの、取引先の者なんですが」

俺が取り次ごうとすると、廊下の奥からぱたぱたと足音がした。

「あ、私です。私が出ます」

まひるさんだった。在宅の日らしい。俺から受話器を受け取って、彼女は、すう、と小さく息を吸った。それから、はっきりした声で言った。

「お電話ありがとうございます。七瀬です」

俺は、台所へ下がった。

少し前のまひるさんなら、電話が鳴るたびに肩をびくりと震わせていた。誰かが出てくれるのを、祈るように待っていた。それが今、自分から受話器を取っている。

「はい。……はい、その件でしたら、明日の朝までに。……いえ、大丈夫です。お任せください」

通話を終えたまひるさんが、受話器を置いてこちらを振り返った。

「……出れました」

ぽつり、と。

「電話、自分から、出れました」

その目が、じわりと潤んでいた。

「前は、無理だったのに。鳴るだけで、お腹痛くなってたのに」

俺は菜箸を置いて、彼女を見た。

「頑張ってるの、俺は知ってますよ」

「……っ」

まひるさんが、ぐ、と唇を噛んだ。それから、ぐすっと洟をすすって笑った。

「もう。それ、ずるいです、周さん。それ言われると、私、すぐ泣いちゃうのに」

周さん、と。いつの頃からか、まひるさんも俺をそう呼ぶようになっていた。「管理人さん」と他人行儀に呼んでいたあの頃の硬さは、もうどこにもなかった。

「すみません」

「謝らないでください……」

ぽろりと、堪えきれなかった涙が一粒、零れた。それを彼女は、手の甲でぐいと拭った。

足元で小麦が「くぅん」と鼻を鳴らして、まひるさんの脚にぽすんと寄り添った。彼女は、その金色の頭をくしゃくしゃと撫でながら、ぐずぐずと笑っていた。

午後。

俺が中庭のウッドデッキの建付けを直していると、ゆめちゃんがタブレットを抱えて出てきた。

「ねえ、周さん」

「おじさん」でも「管理人さん」でもなく、「周さん」。いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。

「ちょっと、これ、見て」

差し出されたタブレットの画面に、一枚の絵があった。専門学校の、課題作だという。布の質感の出たコート。明るい色使い。

「学内のコンペで、佳作、取った」

「すごいじゃないですか」

「いや、佳作だよ? 最優秀じゃないし。たいしたことない」

そう言いながら、ゆめちゃんの口元は、隠しきれずにゆるんでいた。

「でも、講評でね。『色の選び方に、その人らしさがある』って、書いてあって」

「その人らしさ」

「うん。……私、ずっと、自分には何もないと思ってた。みんな、夢とか、やりたいこととか、ちゃんとあって。私だけ、フォロワーの数くらいしか、誇れるもの、なくて」

ゆめちゃんは、タブレットをぎゅっと胸に抱えた。

「でも、私の色を、いいって言ってくれる人が、いた。たった一人でも」

「……ええ」

「これって、ちょっとは、何か、あるってことかな」

俺は工具を置いて、彼女の絵をもう一度見た。深夜に、課題の横にトーストを置いた時のことを思い出していた。あの頃、この子は画面の前で、よく一人で泣いていた。

「ありますよ。たっぷり」

そう言うと、ゆめちゃんは、ぷいと顔を背けた。

「……べつに、周さんに認められたくて言ったんじゃ、ないし」

耳が、赤かった。

「ノックしてって言ったのに、勝手に部屋入ってこないでよね」

「いや、ここ、中庭ですけど」

「うるさい」

ぷりぷりしながら、けれど、ちょっと弾んだ足取りで、ゆめちゃんは家に戻っていった。

俺は、直しかけのウッドデッキに、また屈み込んだ。三人が、それぞれの一歩を。ならば、もう一人。

あの覆面の漫画家が、まだ一歩を見せていないことに、俺はこのとき、気づいていなかった。日が暮れて、締切明けの累さんが台所に現れるのは、それから数刻あとのことだった。

第46話 それぞれの、一歩

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。