第15話

七夕の、短冊

事件、というほどのことでもないが。

翌日の昼間、七瀬さんが休みで、リビングでのんびりしていた。俺は、はたきを持って、笹のあたりを掃除していた。葉に積もったほこりを払って、ついでに、ばらけた短冊の紐を結び直す。

そのとき。

風で、短冊が一枚、はらりとほどけて、床に落ちた。

「あ」

拾い上げると、たたまれていたのが、ひらりと開いてしまった。

『この家に、ずっといられますように』

七瀬さんの字だ。昨日、奥の枝に、こっそり結んでいたあの短冊だった。

なるほど、と思った。

ソファの方で、七瀬さんが、息を呑むのがわかった。顔から、さあっと血の気が引いて、それから、ぼっと赤くなる。今すぐ駆け寄って奪い返したそうな、それでいて、足がすくんで動けないような、妙な顔をしている。

そんなに恥ずかしがらなくても、いい願い事なのに。

「七瀬さんの、ですか」

「そっ……それは、その」

「いい願い事ですね」

俺は、心から、そう思った。

「俺もね、思ってるんですよ。七瀬さんたちが、この家でずっと、安心して暮らせたらいいなって。登美さんも、きっとそれを望んでます」

「……は、はい」

「叶うといいですね、ほんとに」

そう言って、その短冊を、今度はいちばん高い、目立つ枝に、丁寧に結び直した。隠しておくには、もったいない願いだ。よく届くように、と思って。

七瀬さんが、なんとも言えない顔で、こっちを見ていた。笑っているような、泣きそうなような。

「……周さんって」

「はい?」

「いえ……なんでも、ないです」

口をひらきかけて、けれど、首を振った。耳まで赤い。

風邪でも、ひいたんだろうか。昨日から、よく頬が赤くなる。素麺で、お腹を冷やしたのかもしれない。あとで、何か温かいものを出してやろう、と思った。

笹のいちばん高い枝で、七瀬さんの短冊が、誇らしげに揺れていた。

その夜。

寝る前に、ホットミルクを淹れて、七瀬さんに出した。昼間、顔が赤かったのが、気になっていたのだ。

七瀬さんは、カップを両手で受け取って、それから、なぜか、もじもじしはじめた。

「あの……周さん。今日、ちょっと、いろいろ落ち込んじゃって」

「あらら。お仕事ですか?」

「ううん……うまく、言えないんですけど」

両手を、ぎゅっと胸の前で握って、上目遣いに、俺を見た。

「……ぎゅって、して、慰めてもらえませんか」

ふむ、と思った。

慰めてほしい、ということだろう。落ち込んでいる若い人には、よくあることだ。なら、いちばんよく効くものを、用意してやらないといけない。

俺には、心当たりがあった。とっておきが。

「わかりました。とっておきの【ぎゅっ】を、どうぞ」

足元で、へそ天になって寝ていた小麦を、ひょいと抱き上げる。金色の、もふもふの、あたたかい大型犬。それを、そっと、七瀬さんの腕の中に預けた。

「小麦、よしよししてあげてください。これがいちばん、効きますよ」

我ながら、いい処方だと思った。落ち込んだ夜に、もふもふのあったかい犬。これに勝る慰めを、俺は知らない。

ところが、七瀬さんは、小麦を抱えたまま、なぜか、ぽかんとしている。それから、みるみる、顔がくしゃっとなった。

「……ワンちゃんは、可愛いですけど……でもぉ……!」

半泣きで、そう叫んだ。

おや、と思った。気に入らなかっただろうか。いや、小麦を、しっかり抱きしめているところを見ると、嫌いなわけではなさそうだ。

小麦が、腕の中で、ぺろりと、七瀬さんの頬を舐めた。

「気に入ってもらえて、よかった」

俺は、ほっとして、台所へ戻った。やはり、もふもふは効く。腕の中の小麦が、「くぅん」と、なにか言いたげに鼻を鳴らしていた。

しばらくして、リビングをのぞくと。

七瀬さんは、もう、泣き止んでいた。ホットミルクのカップを両手で包んで、湯気を、ふうっと吹いている。もふもふの小麦に顔をうずめて、何が可笑しいのか、こっそり、ふふっと笑っていた。

よかった。落ち着いたらしい。

ホットミルクは、効く。もふもふも、効く。落ち込んだ夜には、この二つだ。俺の見立ては、間違っていなかった。

そういえば、と思い出す。

ひと月前。初夏のはじめ。あの頃の七瀬さんは、毎晩、目元を赤くして帰ってきていた。コンビニの袋を提げる元気もなく、玄関で、長いこと小麦を撫でていた。

それが今は、こうして、笑っている。

人は、変わる。ちゃんと食べて、ちゃんと眠って、笑える夜が積もっていけば、だんだん、前を向ける。俺は、台所で、それを横から見ているだけでいい。

「……この家に来て、よかった」

小麦に顔をうずめたまま、七瀬さんが、ぽつりと呟くのが聞こえた。

その一言で、じゅうぶんだった。

小麦が、同意するように、尻尾を、ぱたん、と一回振る。

笹のいちばん高い枝では、七瀬さんの短冊が、夜風に、さらさらと揺れていた。

『この家に、ずっといられますように』

叶うといい、と、俺も思った。

第15話 七夕の、短冊

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。