第7話

芯まで、染みてます

「……大根」

「三時間ほど、煮てます。芯まで染みてると思いますよ」

遠野さんは箸を取った。その手が、少しだけ止まる。今日一日の何かが、まだ指先に残っているみたいに。

それから、大根を割った。箸が、すっと沈む。力もいらない。半分に割れた断面から、じゅわっと、含んでいた出汁があふれた。湯気が、ふわりと立つ。

一口、口に運ぶ。

遠野さんが、目を閉じた。

噛むという感じではなかった。舌の上で、大根が出汁ごと、ほどけていく。そういう食べ方だった。

「……あ」

小さな声が漏れた。

「……なんで」

遠野さんの声が、揺れていた。

「なんで、こんな……今日、何も、食べてなくて。お昼も、抜いて。ずっと、もういい、何もいらないって、思ってたのに」

俺は向かいに腰を下ろした。何も言わずに、ただ座っていた。

「クライアントに……『なんか違う』って。三回目です。三回目の、なんか違う。どこがって聞いても、答えはなくて。でも月曜の朝には、新しい案を出せって」

箸を持つ手が、震えていた。

「私の作ったもの、誰も、いいって言わないんです。ずっと。一度も」

遠野さんは、もう一口、大根を食べた。今度は、さっきより少しだけ、急いた食べ方だった。空腹が、ようやく自分の体に追いついてきたみたいに。

「徹夜明けで、頭がぼうっとしてて。電車で、何度も乗り過ごしそうになって。最寄り駅から、歩いて帰る道で、もう、自分でもよく分かんなくなって。何のために、こんなに頑張ってるんだっけ、って」

はんぺんを箸で割る。ふわりと、湯気が立った。

「でも、玄関、開けたら。小麦がいて。いい匂いがして」

声が、少しだけ、ほどけた。

俺は徳利を持ち上げて、おちょこに酒を注いだ。熱燗の湯気が、ふたりのあいだに立つ。

「飲んでください。今夜は、もう何も考えなくていいですよ」

遠野さんは、おちょこを両手で包んだ。一口、含む。

ほう、と息が漏れた。肩から、すとんと、力が抜けたのが分かった。

「……あったかい」

「ええ」

「管理人さんのおでん……ずるいです。こんな、弱ってる時に」

遠野さんが、初めて、ほんの少しだけ笑った。

それから、また大根を一口。牛すじを一口。半熟の玉子を、出汁ごと崩して。とろりとした黄身が、汁の中に溶けていく。それを掬って、口に運ぶ。空っぽだった胃に、温かいものが落ちていくたび、遠野さんの輪郭が、すこしずつ緩んでいくのが見えた。

「……牛すじ、とろとろ」

「三回、下茹でしてあるんです。臭みを抜くと、こうなります」

「手間、かかってる」

「金曜は、時間がありますから」

遠野さんが、ふ、と息で笑った。

「金曜の夜に、誰かのために、おでんを三時間煮てる人なんて。世界中探しても、管理人さんくらいですよ」

熱燗を、もう一杯。

俺はそのあいだ、ただ、たまに酒を注ぎ足した。何も聞かず、何も励まさず。

遠野さんは、おでんを半分ほど食べたところで、箸を置いた。おちょこを両手で持ったまま、ふと、こぼすように言った。

「……管理人さんのご飯がないと、生きていけなくなりそう」

言ってから、自分の言葉に気づいたみたいに、遠野さんの頬がわずかに動いた。

「あ、いや、今のは、その」

慌てて、残りの酒を飲み干す。耳のあたりが、酒のせいだけではない色に染まっていた。

「……お酒のせいです。忘れてください」

「はい」

俺は徳利を傾けて、また注いだ。

「おかわり、ありますよ。大根も、まだ鍋に」

遠野さんは、湯気の向こうで、もう一度、小さく笑った。

その夜の遠野(とおの)さんは、玄関で倒れ込まなかった。

代わりに、妙にしゃんとした足取りでリビングに入ってきて、ソファにきちんと座った。背筋が伸びている。それが、かえって心配だった。

「お帰りなさい。今日は早いですね」

「ええ。打ち上げ、だったので」

遠野さんは、革トートをそっと足元に置いた。手にしたコンビニの袋から、缶のハイボールと、つまみのパックを取り出す。

「コンペ、勝ったんです。私の担当した案件」

「それは、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

遠野さんは、缶のプルタブを開けた。ぷしゅ、と音がして、一口飲む。

「半年、かけました。徹夜も何度も。やっと、通ったんです」

言葉とは裏腹に、声に熱がなかった。

俺はキッチンに戻りかけて、足を止めた。リビングの奥、ダイニングの椅子に座る遠野さんの横顔が、蛍光灯の下で、ひどく疲れて見えた。勝った人の顔ではなかった。

つまみのパックには、砂肝(すなぎも)が入っていた。コンビニの、串に刺さったやつだ。遠野さんは、それを一本、口に運ぶ。冷めて、固くなっているのが、噛む顎の動きで分かった。

「……あの」

俺は声をかけた。

「その砂肝、よかったら、温め直しましょうか。家に、いいのがありますよ」

遠野さんが顔を上げた。

「いえ、これで――」

「もう一杯、付き合いますから」

遠野さんが、少し、黙った。それから、缶を持ち上げて、頷いた。

「……お願いします」

俺はキッチンに立った。冷蔵庫から、生の砂肝を出す。今朝、肉屋に寄ったとき、いいのが入っていたのだ。白い筋を包丁で削いで、半分に開く。コリコリした食感は、この下処理で決まる。

砂肝は、ほとんどが筋肉でできている。脂が少なくて、たんぱく質が多い。だから、酒のつまみにちょうどいい。コリコリした食感が、噛むほどに後を引く。それを生かすも殺すも、火加減ひとつだ。

第7話 芯まで、染みてます

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。