第49話

春の、食卓

夕方、宴の片付けをしていると、玄関のほうで物音がした。

「ただいまー」

聞き慣れた声だった。隣人の、佐和子さんだ。登美さんの娘の彼女は、時々こうして実家代わりに、ふらりとやってくる。

「あら、お花見? いいわねえ。お母さんの桜、今年もきれいに咲いたのね」

「佐和子さん。おかえりなさい。ちょうど、お弁当が少し残ってますよ」

「えっ、いいの? わあ、嬉しい」

佐和子さんが、重箱を覗き込んで目を見開いた。

「……ちょっと。周さん、これ、お店出せるわよ。私の作るのと、レベルが違う」

「いやいや、家庭料理ですよ」

「どこの家庭よ」

佐和子さんが、呆れたように笑って、ござに腰を下ろした。母親譲りの、面倒見のいい笑顔だった。登美さんの面影が、ふとそこに重なった。

日が、暮れていく。桜が夕焼けに染まって、薄紅から淡い橙に変わっていった。

俺は、リビングへ続く明かりを、ぽつりと灯した。

「そろそろ、冷えてきましたね。中で、温かいお茶でも」

「はーい」

四人と、佐和子さんと、小麦が、ぞろぞろと家のなかへ入っていく。その背中を見送りながら、俺は最後にもう一度、暗くなりはじめた桜を振り返った。

花びらが一枚、はらりと、俺の肩に落ちた。そっと指で摘んで、見つめる。

──また、来年も。

そう呟いて、俺は、灯りのほうへ歩き出した。

家のなかから、賑やかな笑い声がこぼれてくる。その声に向かって、俺も帰っていった。

桜が散って、葉桜になった頃。日々は、また、いつものように流れていた。

特別なことなど、何もない。

朝、出汁を引く。掃除をして、洗濯をして、買い出しに行く。壊れた建具を直し、小麦を散歩に連れていき、夕方には台所に立つ。そういう、なんでもない一日の、繰り返し。

けれど、俺は今、それを心から幸せだと思える。

その夜は、雨が降っていた。春の、やわらかい雨だった。

俺は台所で、ことことと出汁を温めていた。今日のまかないは、湯豆腐。昆布だしで、ゆっくりと。それから、しじみの味噌汁と、だし巻き卵。簡単な、いつもの夕飯だ。

リビングでは、小麦が特等席のベッドで、まあるくなって寝ている。雨の音が、窓の外で静かに続いていた。

時計の針が、夜の遅い時間を指した頃。玄関が、そっと開いた。

「……ただいま」

疲れた声だった。怜さんだ。残業で、遅くなったらしい。スーツの肩が雨で、少し濡れている。

「おかえりなさい。大変な一日でしたね」

俺は台所から、声をかけた。

怜さんは、玄関でこつんと靴を脱いだ。そして、リビングのソファにぱたりと倒れ込んだ。去年の春、初めて会った夜と同じ姿で。けれど、あの時のような刺すような警戒は、もうどこにもなかった。

「……うん。今日は、ちょっと、長かった」

去年の、あの夜と同じ言葉が、自然と口をついて出た。

「とりあえず、温かいご飯にしましょうか」

俺は、湯豆腐の鍋を卓へ運んだ。ことこと、と湯気が立つ。昆布だしのなかで、白い豆腐がゆらりと揺れていた。

「……いい匂い」

怜さんが、ソファからのそりと起き上がった。その音に気づいて、小麦がぱちりと目を開けた。ベッドからのっそりと立ち上がって、怜さんの足元にぽすんと顎を載せる。

「ただいま、小麦」

怜さんが、その金色の頭をくしゃりと撫でた。

俺は、だし巻き卵を菜箸でくるくると巻いた。じゅう、と卵が鳴いて、ふるりと半熟のだし巻きが立ち上がる。それを、卓に置いた。

怜さんは、湯豆腐をぽん酢につけて、ひと口頬張った。ほろりと崩れる豆腐から、昆布の旨味がじんわりと広がる。

煮立てては、いけない。七十度を少し超えたあたりで、温める。そうすれば豆腐に「す」が立たず、絹のようになめらかなまま。昆布だしのグルタミン酸が、大豆の淡い甘みを、そっと底上げする。

派手な味じゃない。けれど、疲れた夜にいちばん沁みるのは、こういう、静かな一杯だ。

「……はあ」

長い、息が漏れた。

「沁みる」

「日本酒、つけますか」

「……いいの?」

「お疲れの日くらい」

俺がおちょこと、冷やの瓶を差し出すと、怜さんは嬉しそうに目を細めた。ひと口、含んで。それから、ぽつりと言った。

「やっぱり、ここに帰ってくると、ほっとする」

雨の音が、窓を優しく叩いていた。俺は向かいに座って、湯気の立つ鍋を見ていた。

怜さんが、だし巻きをひと切れ、口に運ぶ。その箸が、ふと止まった。去年の春、初めての夜に、まひるさんがそうしたように。

「……変わらないね、この味」

「ええ」

「一年経っても、全然、変わらない」

「変わらないように、作ってますから」

怜さんは、ふっと笑った。それから、おちょこを両手で包んで、言った。

「変わらないものが、一つでもあるって。それが、どれだけ、ありがたいか。前は、わからなかった」

雨の音だけが、二人のあいだに静かに流れた。怜さんが、おちょこの縁を指でなぞりながら、ぽつりと続けた。

「……ありがとう。柏木さん」

柏木さん、と。初めて会った夜、「あなた、誰」と俺を睨んだこの人が、いつの間にか、そう呼ぶようになっていた。「管理人さん」でも、ましてや「あなた」でもなく。たった三文字。けれど、一年という時間が、そこにぜんぶ詰まっている気がした。

俺は、何も言わずに、ただ頷いた。

決定的な台詞を、大声で言う必要はない。ただ、温かいご飯を、湯気の立つうちに出す。それだけで、いい。

湯豆腐の鍋が、ことこと、と小さく鳴った。だし巻きの甘い匂いが、二階へ続く階段のほうまで、そっと立ちのぼっていく。

その匂いに誘われるように、二階でぱたぱたと、いくつかの足音が動きはじめた気がした。──今夜も、賑やかになりそうだ。

第49話 春の、食卓

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。