第38話

ここは、彼女の家です

「怜さん」

俺は、お盆を持って、リビングに入った。

「お母さま。お茶を、お持ちしました」

湯気の立つ湯呑みを、二つ、テーブルに置く。エプロンを、まだつけたまま。袖を、まくったまま。

母親は、俺を、はっきりと見上げた。

「あなた、管理人さんね。悪いけれど、これは、うちの家庭の問題なの。口を挟まないで」

「ええ」

俺は、頷いた。

「ですので、ひとつだけ、確認させてください」

そして、怜さんと母親のあいだに、さりげなく、一歩。立ち位置で、線を引いた。

視線は、外さない。声は、張らない。ただ──語尾を、言い切る。

普段の俺の喋りは、語尾が柔らかい。「〜かなあ」とか、「〜ですよね」とか。それが、消えた。

「ここは、彼女の家です」

母親の眉が、わずかに動いた。

「家、ですって? シェアハウスでしょう。仮の住まいよ。本当の家は、私たちのところ──」

「いいえ」

俺は、静かに、しかし、はっきりと、遮った。

「家賃を払って、自分の意思で借りている部屋は、その人の家です。法律でも、そうです。借りている人の同意なく、誰かを連れ出すことはできません。たとえ、ご家族でも」

「……」

「娘さんは、もう、自分の家賃を払う、大人です」

母親の口が、半分、開いた。

何か言い返そうとして、けれど、続く言葉が出てこなかった。

俺は、続けた。声を荒げない。脅さない。ただ、事実を、一枚ずつ、置いていく。

「お母さま。今日、ここまで来られたのは、娘さんが心配だからですね」

「……当然でしょう」

「その心配は、本物だと思います。三十一年、育ててこられた。手放したくない気持ちも、よくわかります」

母親の肩が、ほんの少し、揺れた。否定されると思っていた言葉を、肯定された。その戸惑いだった。

「でも」

俺は、一拍、置いた。

「心配と、支配は、違います」

「……っ」

「『あなたのため』という言葉は、便利です。それを言われた人は、反論できなくなる。けれど──」

俺は、俯いている怜さんを、ちらりと見た。

「ご覧ください。娘さんは、お母さまの前で、息ができていない」

怜さんが、はっと、顔を上げた。

「これが、本当に、娘さんのためですか」

母親は、答えなかった。

握りしめていたハンドバッグの口金が、かちゃ、と小さく鳴った。

「私は……ただ、この子が、ちゃんと、幸せに」

「わかっています」

俺の声が、ふっと、ひとつだけ、やわらかくなった。

「心配は、もう、じゅうぶん、伝わりました」

そして、また、言い切った。

「ですから──今日は、ここで」

「……」

「娘さんを、どうするかは、娘さんが決めます。連れ戻すのも、留まるのも、お母さまが決めることでは、ありません。それは、もう、この人の権利です」

俺は、頭を下げた。丁寧に。けれど、退路を塞ぐように。

「お引き取りいただけますか。お車、お待たせしていますよね」

殴ってはいない。脅してもいない。土下座も、させていない。ただ、事実と、原理と、境界線を、一枚ずつ、畳んだだけだ。

裁くのは、俺ではない。法と、彼女自身の意思だ。俺はただ、ここが「彼女の家」であることを、思い出させただけ。

母親は、長いこと、黙っていた。それから、ゆっくりと、立ち上がった。

「……怜」

声が、来たときより、ずっと小さかった。

「気が、変わったら……電話、しなさい」

「……うん」

怜さんが、消え入りそうな声で、頷いた。

母親は、もう一度、俺を見た。今度は、値踏みの目では、なかった。何か、見たことのないものを見るような目だった。

そして、何も言わず、玄関を出ていった。雨の音に、車のドアが閉まる音が、ひとつ、混じった。

ドアが、閉まる。

俺は、その閉まったドアを、しばらく見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。

「……ふぃー」

長く、息を吐く。

久しぶりに、あの「顔」を出した。たったそれだけのことで、手のひらが、少し冷たくなっている。それを、悟られないように、握り直す。

そして、半呼吸、置いてから、振り返った。

「……怖かったですね」

いつもの、たれ目に戻して。

「温かいミルクティーを、淹れましょうか。牛乳をうんと入れた、甘いやつ」

怜さんは、ぽかんとしていた。

たった今、母親を玄関の外へ送り出した別人のような中年男と、目の前の、抜けた顔でミルクティーの相談をしている管理人とを、何度も、見比べている。

それから──。

くしゃ、と、顔が崩れた。

「……っ、あ……」

両手で顔を覆って、肩を震わせて、声を殺して、泣いた。三十一年分の、言えなかった「いやだ」が、堰を切ったように、こぼれていた。

俺は、何も言わなかった。ただ、台所に立って、ミルクティーを淹れた。

牛乳のトリプトファンは、人を安心させる。温めると、湯気といっしょに、やさしい香りが立つ。

泣いている人の横で、ミルクを温める。それだけのことが、ときに、どんな言葉よりも効く。

小鍋のなかで、あたためた牛乳の、蜜のように甘い香りが、ふつり、ふつりと、湯気になって立ちのぼる。喉が、ひとりでに、こくりと鳴りたくなる匂いだった。

だから、俺は、まだ気づいていなかった。リビングの入口に、いつのまにか、こちらを見ている四つの視線があったことに。

第38話 ここは、彼女の家です

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。