第21話

餓死寸前の、メンチカツサンド

ソースの滴る音で、手が止まったらしい。

あとから聞いた話だ。本人は覚えていなかった。その日の真壁累(まかべるい)が、最後に何かを口に入れたのがいつだったのかさえ、覚えていなかったのと同じくらいに。

俺が知っているのは、廊下に置いた紙包みが、半日後には空になっていたことだけだ。

八月の昼下がりだった。

二階の女性居住エリアには上がらない。それが常夜灯の管理人としての俺の鉄則で、だから真壁さんの様子は、いつも階段の下からの気配でしか分からない。

その気配が、三日前から消えていた。

ドアの開く音がしない。水を流す音も、足音もしない。ただ、夜どおし液タブのペンが画面を擦るかすかな音だけが、廊下にこぼれ落ちてくる。

締切だ、と俺はすぐに分かった。

真壁さんは在宅のWeb漫画家だ。締切が近づくと、部屋から一歩も出なくなる。飯を食うことも、寝ることも、風呂に入ることも、ぜんぶ後回しにして、ただ描く。

引っ越してきた当初、俺はそれを知らなかった。三日ぶりに階段を下りてきた彼女が、ふらふらと冷蔵庫の前で崩れ落ちかけたのを見て、肝を冷やしたのを覚えている。

「血糖値が、ゼロなんで」

床に座り込んだまま、彼女は呂律の怪しい声で、そんなことを言った。冗談なのか本気なのか、判別がつかなかった。たぶん、本気だった。

以来、俺は締切のたびに、こっそり様子を窺うようになった。本人に気づかれないように。気づかれると、「気を遣わせてすみません」と、彼女がまた一つ、余計な荷物を背負ってしまうから。

餓死(がし)寸前の野生動物、というのが、ゆめちゃんが彼女につけたあだ名だった。失礼な、と思ったが、的を射ているとも思った。

「管理人さん、累さん大丈夫かな」

階段の途中で、まひるさんが心配そうに振り返った。今日は早番だったらしく、もう私服に着替えている。

「昨日の夜、二階のトイレで会ったんですけど。累さん、こう、壁づたいに歩いてて。目も、なんか、うつろで。あれ、大丈夫なやつですか?」

「大丈夫……ではないですけど、いつものことではあります」

「いつものこと……」

「締切の三日目あたりが、いちばん危ないんですよ。一日目はまだ元気で、二日目で生活が消えて、三日目には、自分が人間だってことを忘れる」

まひるさんが、ぞっとした顔をした。

「差し入れ、持っていこうかな……」

「いえ」

俺は首を振った。

「今は、たぶん何を持っていっても気づかないと思いますよ。声をかけたら、かけたぶんだけ、あの人は『すみません』って言いますから。謝らせるために飯を持っていくのは、ちょっと違うかなと」

集中している人の背中ほど、触れてはいけないものはない。俺はそれを、よく知っている。

栄養だけを、そっと置いていく。気づかなくていい。礼もいらない。ただ、餓死だけは、させない。

夕方。台所に立った。

冷蔵庫を開けて、合い挽き肉のパックを取り出す。今日のために買っておいたものだ。

玉ねぎをみじん切りにして、飴色になるまでじっくり炒める。火を入れた玉ねぎは、糖が立って甘くなる。それを冷ましてから挽き肉に混ぜ込み、塩、こしょう、ナツメグをほんの少し。

そこからが肝心だった。

挽き肉は、練る。

ボウルに手を突っ込んで、しっかりと、粘りが出るまで。脂と肉が、ねっとりと絡み合って、ひとつになる。乳化(にゅうか)、というやつだ。

手のひらに、肉の冷たさと脂のぬめりが移る。だんだん、生地がまとまって、艶を帯びてくる。この感触で、揚げあがりの良し悪しが、もう分かる。こうしておくと、揚げたときに肉汁が逃げずに、衣の内側にとどまってくれるのだ。

小判形にまとめて、空気を抜くように、両手でぱしぱしと打つ。中に空気が残っていると、揚げたときに、そこから割れて、肉汁が逃げてしまう。

薄力粉、溶き卵、パン粉。

パン粉は粗めのものを選んだ。揚げたときのザクッという音は、このパン粉が決める。

油の温度を、指先で確かめる。百八十度。パン粉をひとつまみ落とすと、ぱちぱちと小気味よく散った。

そっと種を沈める。

じゅわ、と油が沸き立つ。衣の表面で、無数の小さな気泡が、生き物みたいに踊りはじめる。

揚げ物の音は、温度を教えてくれる。最初の、勢いよく沸き立つ音。それが落ち着いて、ちりちりと細かい音に変わったら、中まで火が通ったしるしだ。

ぱちぱちと弾ける油の音に、香ばしい匂いが乗ってくる。パン粉の焦げる、こんがりとした香り。揚げ油の向こうから、肉汁の予感が、もう立ち上っていた。

足元で、小麦が鼻を鳴らした。「クーン」と、世にも切なげな声で、揚げ油の鍋を見上げている。垂れた耳の下で、鼻先が、ひくひくと動いていた。

「これは小麦のじゃないよ」

金色の頭を撫でてやると、小麦は不服そうに喉を鳴らし、それでも諦めたように、ベッドのほうへ戻っていった。よだれが、床に点々と落ちている。あとで拭こう。

きつね色になった頃合いで、菜箸でそっと引き上げる。油を切ると、衣がじゅっと小さく鳴いた。

表面に、ぷつぷつと細かい泡が立っている。中で肉汁が、まだ暴れている証拠だ。切るのが、もったいないくらいに。

揚げたての香ばしい匂いが、湯気に乗って、台所から廊下へ、細く流れ出していく。ソースをまとわせれば、この匂いは、もっと遠くまで届くだろう。

二階のドアの向こうまで、届くだろうか。

そのとき、あの野生動物の、擦り切れた鼻先が、ほんの少しでも、ひくりと動いてくれたなら。俺はまだ、その匂いが、彼女の何を変えることになるのかを、知らないでいた。

第21話 餓死寸前の、メンチカツサンド

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。