第12話

涙の味の、オムライス

スプーンを入れると、とろとろの卵が、チキンライスにからむ。

七瀬さんが、一口、食べた。

その瞬間、スプーンを持つ手が、止まった。

何か言いかけて、けれど言葉にならないようだった。唇を結んで、もう一度、皿を見下ろす。睫毛が、震えている。

「……っ」

ぽろ、と一粒、皿の上に落ちた。それから、もう一粒。ケチャップの赤い線の上に、透明なものが、にじんでいく。

「……すみ、ません」

声が、震えていた。

俺は、慌てなかった。何があったのかも、聞かなかった。こういうときに理由を問い詰めるのは、傷口を指で押すようなものだ。ただ、向かいの椅子を引いて、静かに座った。

何か、まひるさんが、ずっと我慢してきたものが、この一皿でほどけてしまったのだろう。それが何かは、わからない。わからないけれど――たぶん、この子は、今日まで、たくさん頑張ってきた。

「今日も一日、よく頑張ったね」

ぽつりと、言った。

「数字とか、成績とか。そういうのが全部じゃないですよ」

七瀬さんは、顔を上げられないようだった。肩が、小さく震えている。

「七瀬さんが今日、会社に行って、ちゃんと帰ってきた。それだけで、もう、十分すごいことなんです。俺はそう思いますけど」

外で何があったのかは、知らない。営業の世界が、数字で人を計る場所だということくらいは、なんとなく想像がつく。届かなかった、と、たぶん、そういう日なのだろう。

けれど、布団から起き上がって、スーツを着て、会社に行って、また帰ってきた。それだけのことを、俺は、本気で、すごいと思う。世辞でも慰めでもなく。

俺自身、それすらできなくなった時期が、昔、あったから。

七瀬さんは、ついに、声を上げて泣いた。

小麦が、「くぅん」と鼻を鳴らして、まひるさんの膝に顎を乗せた。お前は、こういうとき、本当にいい仕事をするな。

泣くだけ泣いたあとのオムライスは、半分くらい冷めていた。

それでも、七瀬さんは、最後の一口まで、ちゃんと食べてくれた。冷めても、おいしそうに食べてくれるのが、作った身には、いちばん嬉しい。

「……あの」

ティッシュで目元を押さえながら、七瀬さんが聞いてきた。

「ちゃんと食べてなかったの、なんで、わかったんですか」

俺は、空になった皿を下げながら、笑った。

「顔に出てましたよ」

それだけだ。長く人を見る仕事をしていると、顔色や、声の張りや、手ぶらで帰ってくることくらいで、だいたいのことは見えてしまう。それを言葉にして問い詰めないだけで。

七瀬さんは、なぜか、また少し泣きそうな顔をして、慌ててお茶を飲んだ。

俺は、よくわからなかった。何か、変なことを言っただろうか。

足元では、小麦が、七瀬さんのスリッパに顎を乗せたまま、すうすう寝息を立てていた。今日も、いい働きだった。

朝のキッチンで、フライパンを揺すっていた。

じゅう、と豚肉が鳴って、甘辛いタレの匂いが、リビングいっぱいに広がっていく。生姜の効いた、香ばしい湯気。これを嗅いで腹が鳴らない朝はないはずだ、と俺は思っている。

ところが。

食卓の七瀬さんが、だし巻き卵をひとくち食べて、また箸を置いた。

おかしいな、と思った。だし巻きは、七瀬さんの好物だ。いつもなら、もう一切れ、もう一切れ、と手が伸びる。それが今朝は、ひとくちきりで止まっている。指先を、しきりに擦り合わせていた。六月だというのに、寒いのだろうか。

「七瀬さん、箸が止まってますよ」

声をかけると、七瀬さんは、はっとしたように顔を上げた。

「……すみません。なんか、お腹に入らなくて」

「なにか、ありました?」

聞くと、七瀬さんは、少しためらう顔をした。言おうか言うまいか、迷っているような。それから、こちらの顔を、おそるおそる、うかがうように見た。

「電話が……鳴るのが、怖いんです」

言ってから、ぱっと頬が赤くなった。

「変ですよね。たかが電話なのに。今日、クレームの電話を取らなきゃいけなくて。想像しただけで、心臓がばくばくして」

胸のあたりを、片手で押さえている。本当に、今、鼓動が速くなっているのだろう。想像しただけで、そうなる。それくらい、こわいのだ。

俺は、笑わなかった。笑うようなことじゃない。

第12話 涙の味の、オムライス

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。