第50話

おかえりなさい

しばらくして、二階からぱたぱたと足音が下りてきた。

「あ、なんかいい匂いする!」

ゆめちゃんだ。続いて、まひるさんと、累さんも。

「湯豆腐? いいなあ、私も食べたい」

「だし巻き、私の分、ある?」

「私、しじみ汁ください。さっき、ちょっと飲みすぎて」

「累さん、また締切前に飲んだんですか」

ぞろぞろと、四人が卓に着く。俺は立ち上がって、人数分の器を並べはじめた。

雨の夜の、なんでもない、夜食の時間。湯気の立つ卓を囲んで、四人が笑っている。

火花が散っても、独占欲が顔を出しても、それはもう、この食卓の、いつもの賑やかさの一部だった。

「だし巻き、私のほうが大きい」

「ずるい、半分こしてよ」

「やだ」

「周さん、もう一本焼いて!」

「はいはい」

俺は、笑いながら台所へ戻った。足元で、小麦が尻尾を振って、ついてくる。

卵を、ボウルに割って、出汁を加える。油を引いた卵焼き器が、じゅう、と鳴る。流し込んだ卵が、ふつふつと縁から固まりはじめる。菜箸で、手前へくるりと巻く。また油を引いて、卵を流して、巻く。何度も、何度も。層が重なって、ふっくらと黄金色のだし巻きが立ち上がっていく。

くるくると、菜箸を回しながら、俺は、ふと思った。

──ああ。

これだ。

俺が、ずっと欲しかったものは。肩書も、経歴も、いらない。ただ、誰かが「ただいま」と帰ってきて、湯気の立つご飯を待っている。その人に、「おかえりなさい」と言える。

それだけで、よかったんだ。

夜が、更けていく。雨は、いつの間にか上がっていた。

四人が、満たされた顔で二階へ上がっていく。

「ごちそうさまでした」

「おやすみなさい、周さん」

「おやすみなさい」

俺は、空いた食器を流しへ運んだ。水を流す音だけが、静かな夜に、ことことと響く。

足元で、小麦が「わふ」と欠伸をした。

「お前も、おやすみ」

その金色の頭を、撫でた。

片付けを終えて、管理人室へ戻ろうとした時。玄関のそばの、古い掲示板が、ふと目に入った。登美さんの頃から、ずっとそこにある、木の枠の、小さな掲示板。

そこに、一通の封筒が、画鋲で留められていた。見覚えのない、白い封筒。宛名には、こう書かれていた。

『常夜灯 管理人さまへ』

俺は、それをそっと外した。封を開けると、便箋が一枚。丁寧な、けれど、少し震えたような字で、こう記されていた。

『はじめまして。

ある人から、この家のことを、聞きました。

頑張らなくていい味のする場所が、ここにあると。

「ただいま」と言える場所が、あると。

わたしは今、少し、疲れています。

もし、ご迷惑でなければ──一度、体験で、泊まらせていただけませんか』

俺は、その手紙をしばらく読んでいた。それから、ふっと笑った。

また、誰かが、この灯りを見つけたらしい。疲れた誰かが、夜のなかで、ぽつりと灯る、この家の明かりを。

きっと、これからも。この灯りは、誰かを導いてくる。

俺は、手紙をそっと、台所の棚に立てかけた。明日、返事を書こう。「どうぞ、いらしてください」と。「ご飯を、用意して、待っていますから」と。

管理人室の窓から、空を見上げた。雨上がりの夜空に、薄い雲が流れて、その隙間から、星がいくつか覗いていた。

──登美さん。

俺は、心のなかでもう一度、呼びかけた。

また、一人、来るみたいですよ。あなたが遺した、この灯りに導かれて。

大丈夫です。ちゃんと、温かいご飯を用意しておきますから。「おかえりなさい」って、言ってあげますから。

足元で、小麦が、俺の膝にことりと顎を載せた。俺は、その頭をゆっくりと撫でた。

固定電話の黒い影が、月明かりのなかで、静かに佇んでいる。いつ、誰からかかってきても、いいように。いつでも、誰かが「ただいま」と帰ってこられるように。

ここは、おかえりが言える場所。頑張らなくていい味のする、女性たちの、秘密の灯り。

今夜も、常夜灯は、静かにともっている。

第50話 おかえりなさい

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。