第11話

トイレで泣く、新人さん

夕方のキッチンで卵を割っていると、玄関のドアが開く音がした。

「ただいま、小麦」

か細い声だった。続いて、小麦が尻尾で床を叩く、ぱたぱたという音。あの子がいつも、いちばん先にお出迎えに行く。金色の大きな体を、住人の足にぐいぐい擦りつけるのが日課だ。

七瀬さんだ。

柏木(かしわぎ) 周(あまね)、四十二歳。この大正モダンの女性専用シェアハウス『常夜灯(じょうやとう)』で、住み込みの管理人をやっている。といっても、やっていることは賄いと掃除と修理くらいのもので、要するにこの家の台所番だ。

七瀬まひるさんは、不動産の営業をしている若い人で、確か入社二年目だと言っていた。毎朝、髪をきれいに巻いて、背筋をぴしっと伸ばして出社していく。

その七瀬さんの「ただいま」が、今日は、いつもと少し違った。

俺は手を止めて、廊下の方をうかがった。しゃがんで小麦を撫でている背中が見える。撫でる手が、長い。なかなか、立ち上がらない。小麦の毛に顔を埋めるみたいに、じっとしている。

「お帰りなさい、七瀬さん」

声をかけると、七瀬さんは、ぱっと顔を上げた。

「ただいま、です」

笑っていた。きちんと、いつもの営業スマイルだ。けれど、その目元が、ほんの少しだけ、赤い。睫毛のあたりが、湿っている気がした。化粧で隠してはいるけれど、長く誰かの顔を見てきた人間には、そういうのは、なんとなくわかる。

それに、手が空っぽだった。

「……今日は、コンビニで何も買ってこなかったんですね」

「え」

七瀬さんは、自分の手元を見て、少し驚いたような顔をした。いつもなら、帰り道のコンビニで、おにぎりかカップ麺を提げて帰ってくる。それすら、今日は買う気力がなかったのだろう。手ぶらだ。

買い物をする元気もない日というのは、たいてい、ろくなことがなかった日だ。

俺はそれ以上、何も聞かなかった。何があったんですか、とは。聞いてほしくない日に聞かれるのは、しんどい。それは、嫌というほど知っている。

「ちょうどよかった。座っててください。すぐできますから」

コンロの火をひとつ点けて、冷蔵庫から卵を取り出した。

こういう日は、説明よりも、まず腹に何か入れてもらうのがいい。空きっ腹で考え込むと、人はどこまでも暗い方へ落ちていく。逆に、温かいものが胃に入ると、それだけで少し、世界の見え方が変わったりする。

不思議なものだ。

ことこと、と鍋が鳴る。

七瀬さんは、大きな食卓に座って、こちらをぼんやり眺めていた。足元に小麦が、どすんと寝そべる。あの重みは、たぶん、わざとだ。落ち込んでいる人のところへ行きたがる。賢い犬だ。

フライパンにバターを落とすと、じゅう、と溶けていい匂いが立つ。玉ねぎを刻んで、鶏肉と一緒に炒める。ご飯を入れて、ケチャップをくるりと回しかける。白かったご飯が、湯気を立てて、つやつやした赤に変わっていく。

ちらりと、七瀬さんの方を見た。さっきまで、お腹なんて空いていない、という顔をしていた。それが、匂いが届くあたりで、ほんの少し、喉が動いた。お腹の底のあたりに、そっと手をやっている。本人は気づいていないかもしれないが、体は正直だ。

ちゃんと、お腹は空いている。生きている証拠だ。それでいい。

卵を溶いて、温まったフライパンに流し込む。じゅわ、と縁が固まる。小刻みに揺すって、菜箸の先で真ん中を寄せていく。

「卵って、六十度くらいから固まりはじめるんですよ」

別に教えるつもりもなく、口から出た。

「だから、強火で一気にやっちゃだめなんです。半熟のとろっとしたところで、火から下ろす。そこの見極めだけ」

七瀬さんは、何も言わずに、俺の手元を見ていた。じっと。逃げ場を探すみたいに、何かに目を留めていたいのかもしれない。それなら、いくらでも見ていてくれていい。

チキンライスの上に、半熟の卵を滑らせる。包丁の背でそっと真ん中をなぞると、黄色い膜が割れて、とろりと両側に流れた。

「わ」

七瀬さんが、小さく声を漏らした。その声が、今日初めて聞いた、素の声に思えた。

ケチャップで赤い線を一本。湯気が立つ。

「特製オムライスです。お待たせしました」

湯気が、七瀬さんの顔のあたりで、ゆらりと揺れた。ケチャップの赤い線を、じっと見つめている。スプーンを持つ手は、まだ、動かない。

その目元が、また、ほんの少し、潤んだ気がした。なぜだろう、と俺は思った。まだ、一口も、食べていないのに。

第11話 トイレで泣く、新人さん

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。