第17話

べつに、頑張ってなんかない

その夜、この家で一番年下の住人――ゆめちゃんが、深夜の共有キッチンで、課題を前に頭を抱えていた。俺は焼きたてのはちみつトーストを皿に乗せて、リビングへ運んだ。ゆめちゃんは、まだ突っ伏していた。今度は完全に、額をカウンターにつけて。

「小田切さん」

顔を上げた彼女の前に、俺は皿をそっと置いた。

「これ、余ったので。よかったら」

ゆめちゃんは、皿を見た。それから俺を見た。眉が、きゅっと寄った。

「……いらない。べつに、お腹すいてないし」

「そうですか。じゃあ、置いておきますね。残ったら、明日僕が食べるので」

俺は皿を彼女の手元に寄せて、キッチンへ戻ろうとした。借りを作らせるつもりはなかった。施しでもない。本当に、余ったから。だから受け取りやすいように、そう言うだけでよかった。

背中で、彼女の声がした。

「……おじさんに、何が分かるの」

俺は足を止めた。

「課題とか、就活とか、そういうの。おじさんの時代にはなかったでしょ。今がどんだけ大変か、分かんないでしょ」

振り返ると、ゆめちゃんはこちらを見ていなかった。皿のトーストを、にらむように見ていた。

「分からないですね」

俺は正直に言った。

「君の今がどれだけ大変か、僕には分かりません。分かったふりはしたくないので」

ゆめちゃんが、少し顔を上げた。

「ただ、お腹がすいてると、よけいに何もかも嫌になるのは、知ってます。それくらいは」

返事はなかった。

俺はキッチンに戻って、鍋を片付けた。水を流す音の向こうで、椅子が小さく軋む気配がした。ちらりと振り返ると、ゆめちゃんがトーストを手に取っていた。両手で、包むように持っている。

まだ温かいはずだ。チーズの溶けた断面が、照明の下で艶めいていた。

彼女は一口、かじった。チーズが、糸を引いて伸びる。それを指でからめ取って、口に運ぶ。はちみつが唇についたのを、舌の先でなめた。それから、肩が小さく動いた。何かをこらえるみたいに。

「……熱」

ぽつりと、そう言った。声が少し、湿っていた。

熱いのは、トーストだけじゃなかったらしい。目のふちに、熱いものが少し光っていた。でも、それは言わないでおいた。

俺は何も言わずに、洗い物を続けた。蛇口から落ちる水の音が、ふたりのあいだの沈黙を、ちょうどよく埋めてくれた。食べる姿を、急かしてはいけない。見つめてもいけない。ただ、そこにいればいい。それだけのことだ。

しばらくして、皿の上は空になっていた。

「ごちそうさま」

ゆめちゃんが、ぼそっと言った。

「美味しかった……って、言ってないけど」

「はい」

「言ってないからね」

「はい」

彼女は皿を持って、キッチンの流しまで来た。自分で洗おうとするのを、俺が「やりますよ」と受け取った。そのとき、ゆめちゃんが眼鏡の奥で、ちょっとだけ唇を尖らせた。

「……ノックくらい、してよね」

「すみません。次から、必ず」

俺が素直に謝ると、ゆめちゃんは毒気を抜かれたみたいに、ふいと顔を背けた。

「……っ、もう、いい」

階段を上っていく足音が、いつもより少しだけ軽く聞こえたのは、たぶん気のせいだ。

足元で、小麦がいつのまにか起きていて、空になった皿のあたりをくんくんと嗅いでいた。

「お前のじゃないよ」

くぅん、と小麦が鳴いた。

夜は、まだ少し蒸している。

それからゆめちゃんは、深夜の共有キッチンに降りてくるようになった。課題を抱えて、というのが建前なんだろう。実際、いつもタブレットと布を広げている。でも、本当に手を動かしている時間は、そんなに長くない。

一人暮らしの部屋で、夜中に急に押し寄せてくる静けさというものを、俺も知らないわけじゃなかった。誰もいない部屋の天井を見ていると、自分が世界から忘れられたような気がしてくる、あの感じ。たぶん、彼女はそれが嫌で、降りてくる。

俺が管理人室で出汁を引いたり、翌朝の仕込みをしたりしていると、リビングの奥に明かりがつく。それが、合図みたいになっていた。俺は気づかないふりをして、火加減を見る。彼女が降りてくる音は、いつも少しためらいがちだった。

その夜も、午前零時を過ぎたころ、明かりがついた。俺がリビングをのぞくと、ゆめちゃんはカウンターに頬杖をついて、スマホをぼんやり眺めていた。タブレットも布も、今日は出していない。

「……おじさん」

俺に気づくと、彼女は画面を伏せた。

「就活って、何歳から始めるのが普通だと思う?」

唐突だった。俺は手ぬぐいを首にかけたまま、彼女の隣の椅子は引かずに、少し離れて立った。

「さあ。僕の頃とは、ずいぶん違うでしょうから」

「クラスの子がさ、もう動いてるんだよね。インターンとか、ポートフォリオとか」

ゆめちゃんは、スマホの角で、カウンターをこつこつと叩いた。

「わたし、未経験で入ったんだよね、この学校。最初から綺麗に縫える子ばっかりで、入った時点でもう、出遅れてて」

第17話 べつに、頑張ってなんかない

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。