第18話

何者にも、なれない

その夜も、ゆめちゃんは深夜の共有キッチンに降りてきていた。堰を切ったように、彼女がぽつぽつと話しはじめる。俺は向かいで、ただ黙って聞いていた。

「……」

「うちのクラス、めちゃくちゃ上手い子がいるの。一人。その子の作品見ると、もう、無理って思う。何やっても、あの子には勝てない」

「……」

「で、その子はもうブランドの内定とか取りそうで。みんなどんどん前に進んでて、わたしだけ、何も決まってなくて」

声が、だんだん細くなっていく。昼間の、大人びた話し方じゃない。

「わたし、何者にもなれないんだろうなって。肩書きも、実績も、何もないし。フォロワーだけは多いけど、そんなの、何の意味もないし」

ゆめちゃんは、スマホを裏返したまま、その上に手を重ねた。

「……向いてないのかな。こういうの」

俺は、否定しなかった。「向いてるよ」とも、「そんなことないよ」とも言わなかった。そういう言葉が、いま彼女に必要じゃないことは、なんとなく分かっていた。

「ちょっと、待っててください」

俺はキッチンに入った。鍋に牛乳を注いで、弱火にかける。沸かしてはいけない。膜が張る手前で、優しく温めるのがいい。鍋肌の縁に、細かい泡がふつふつと並びはじめたら、もう火から遠ざける頃合いだ。

ココアの粉を、少量のお湯で先に練る。こうすると、だまにならずに、なめらかに溶ける。粉のままだと、いつまでもざらつきが残ってしまう。砂糖を少し。それを温めた牛乳に溶かし込むと、鍋の中が一気に深い茶色に変わった。

木べらでゆっくり混ぜると、湯気のなかにカカオの香りが立ちのぼる。甘くて、ほんの少しほろ苦い。仕上げに、棚にあったマシュマロを二つ、浮かべる。白いかたまりが、熱で角を失って、ゆっくりと溶けはじめた。

温かい湯気が、カカオの匂いを連れて立ちのぼった。

俺はそれを、ゆめちゃんの前に置いた。

「ホットココアです。眠れない夜に」

ゆめちゃんは、マグカップを見下ろした。表面で、白いマシュマロがゆっくり溶けはじめている。

「……甘いの、太るんだけど」

「カカオには、テオブロミンっていう成分が入ってて」

「は?」

「気持ちをゆるめてくれるそうですよ。温かい飲み物っていうのは、それだけで体が休もうとするので」

ゆめちゃんは、ちょっと呆れたような顔をした。

「おじさん、変なこと詳しいよね」

「料理だけが趣味なので」

彼女は両手でマグカップを包んだ。さっきまで叩いていた指が、今は静かにカップの丸みをなぞっている。

一口、飲んだ。

「……あったかい」

それから、しばらく黙っていた。俺も、何も言わなかった。カウンターの上で、湯気が細く立ちのぼっては消えていく。

「ねえ、おじさん」

「はい」

「諦めたほうが、楽になるのかな」

ゆめちゃんが、マグカップに目を落としたまま言った。

「好きで入ったはずなんだよね、この道。服が好きで、作るのが好きで。なのに、いつのまにか、課題に追われて、比べて、苦しいだけになってて」

彼女は、マシュマロが溶けていくのを、じっと見ていた。

「ずっと、苦しいんだよね。上手い子と比べて、勝手に落ち込んで。だったらもう、好きとか言うのやめて、普通に就職したほうが、楽になれるのかなって」

「……」

「でも、諦めたら、本当に終わる気がして。怖くて、できなくて」

俺は、少し考えた。それから、ゆっくり言った。

「諦めるかどうかは、今夜決めなくていいですよ」

自分でも、思ったより静かな声が出た。

ゆめちゃんが、顔を上げた。

「今夜の君は、疲れてて、お腹がすいてて、上手い子と自分を比べたばっかりで。そんな状態で決めたことは、たぶん、明日の君の本当の気持ちじゃない」

「……」

「だから、今夜は決めなくていい。ココアを飲んで、寝て。決めるのは、また別の日でいいんです」

「……決めなくて、いいの」

「いいんです。明日でも、来月でも。なんなら、来年でも」

ゆめちゃんは、しばらく俺を見ていた。何かを言いかけて、やめて。それから、ふいと目をそらして、マシュマロを一つ、スプーンですくった。

「……おじさんって、なんかさ」

「はい」

「動じないよね。わたしがいくら生意気なこと言っても」

「そうですか?」

「『何が分かるの』とか言われたら、普通もっと、ムッとするでしょ。でもおじさん、全然」

彼女は、溶けかけのマシュマロを口に運んだ。

「なんか、つまんない」

そう言いながら、頬が少し赤かった。ココアが温かいから、かもしれない。

「すみません。年をとると、ムッとする体力もなくなって」

「うわ、出た。おじさんの自虐」

ゆめちゃんが、ちょっとだけ笑った。その笑顔は、昼間のSNSに上げているような、作った笑顔じゃなかった。少し崩れていて、その分だけ、本物に見えた。

こういう顔のほうがいいのに、と思ったが、それは言わなかった。たぶん、言ったら台無しになる。

足元で、小麦が起きてきて、ゆめちゃんの足にぽすんと顎を乗せた。

「うわ、こむぎ、重い」

そう言いながら、彼女は小麦の頭を撫でていた。撫でる手つきが、優しかった。

「……こいつだけは、フォロワー数とか聞いてこないからいいよね」

ぽつりと、そんなことを言った。

俺には、その一言の重さが、なんとなく分かった。きっと彼女のまわりには、数字で人を測る世界が、ずっとあるんだろう。いいねの数。フォロワーの数。コンテストの順位。小麦は、そういうものを一つも持っていない。ただ、撫でてくれる手が好きなだけだ。

「小麦は、君が好きみたいですよ」

「……知ってる」

ココアを飲み終えるころには、ゆめちゃんの目から、さっきまでの赤みが少し引いていた。

「ごちそうさま」

マグカップを流しに運びながら、彼女が小さく言った。

「……管理人さん」

俺は、洗い物の途中で、聞き返した。

「はい?」

ゆめちゃんは、一瞬固まって、それから早口で言った。

「なんでもない! おやすみ!」

階段を駆け上がっていく足音を聞きながら、俺は首をかしげた。いま、なんて呼ばれたんだろう。「おじさん」じゃ、なかった気がする。でも、聞き間違いかな、と思った。深夜は、耳もぼんやりする。

足元の小麦が、空のマグカップのほうを見て、くぅんと鳴いた。

「お前のじゃないって、いつも言ってるだろ」

夜は、少しだけ涼しくなっていた。

第18話 何者にも、なれない

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。