第41話

人を幸せにする仕事に、疲れて

固定電話が鳴ったのは、雪のちらつく夜だった。

普段は滅多に鳴らない、黒い受話器。番号を知る者など、数えるほどしかいない。

俺は台所の手を止めて、管理人室へ向かった。

「はい、常夜灯(じょうやとう)、管理人です」

受話器の向こうは、古い知人だった。俺が表舞台にいた頃、世話になった老舗料亭の、先代の女将。その女将が先月、静かに亡くなったという報せだった。

「……そうですか」

それだけ、言った。声が、思ったより掠れた。

電話を置いて、しばらく黒い受話器を見つめていた。

また一人、俺を「あの頃の俺」として知っている人が、いなくなった。

リビングに戻ると、四人が鍋を囲んでいた。

冬の常夜鍋だ。豚肉とほうれん草を昆布だしにくぐらせて、ポン酢で。毎晩食べても飽きないから、常夜鍋。この家の名前と、どこか響き合う一品だった。

小麦(こむぎ)が、湯気の立つ鍋の前で、物欲しげに「クーン」と鼻を鳴らしている。

「管理人さん、電話、誰でした?」

ゆめちゃんが、何気なく訊いた。

「ああ。昔の、知り合いです」

俺は、笑って答えた。たぶん、上手く笑えていなかった。

怜さんが、ふと箸を止めた。この人は、こういう機微にいちばん早く気づく。

「……管理人さん。顔色、よくないよ」

「そうですか? 雪で、冷えただけですよ」

そう言って、俺は自分の椀に、ほうれん草をひと束入れた。

四人が、顔を見合わせた。最近、この四人は、よく顔を見合わせる。あの──怜さんのお母さんを、俺が玄関先で送り出した、あの夜から。

あの人は、何者なんだろう、と。

その問いが、四人の間でずっと宙に浮いたままになっていることを、俺は気づかないふりをしていた。

鍋が終わって、締めの雑炊を作った。

鍋に溶け出した旨味──豚のイノシン酸と、昆布のグルタミン酸。そこに溶き卵を回し入れると、ふわりと黄色い膜が立って、湯気が一段、甘くなる。

「はい、おじや。よく噛んで」

椀によそって、配る。

四人が、はふはふと食べる。その音を聞いていると、いつもなら、それだけで満たされる。

なのに、今夜は。胸の奥が、しん、と冷えていた。報せのせいだ、と思った。

「ねえ、管理人さん」

雑炊を食べ終えた怜さんが、椀を両手で抱えたまま、ぽつりと言った。

「私たち、ずっと、訊けずにいたんですけど」

「はい」

「前にね。料理は昔『ちょっと』やってただけ、って言ったでしょ」

「……ええ」

「あれ、ずっと引っかかってたんです。あんな味が、『ちょっと』で出るわけない。──管理人さんって、前は、何をしてた人なんですか」

リビングが、静かになった。小麦が、誰かの足元で、ぱたんと尻尾を振る音だけがした。

四人の目が、まっすぐ俺を見ていた。責めるのでも、面白がるのでもない。

ただ──知りたい、という目だった。この人のことを、ちゃんと知りたい、という。

俺は、湯呑みの茶をひとくちすすった。いつもなら、はぐらかす。「しがない倉庫番ですよ」とか。「皆さんの賄い係です」とか。

でも、今夜は。女将の報せが、俺の口を、ほんの少しだけほどいていた。

「……長い話に、なりますよ」

俺がそう言うと、ゆめちゃんが、すっと立って、ティーポットにお湯を足した。逃がさない、という顔だった。

俺は、息を吐いて、話しはじめた。

「俺はね。昔──外国のお客様を相手にする、ホテルや旅館の、コンシェルジュをしていたんです」

「こんしぇるじゅ」

まひるさんが、おうむ返しに言った。

「お客様の、無理難題を叶える仕事です。今夜どうしても、世界に三つしかない花が欲しいとか。明日の朝までに、閉まった美術館を貸し切りたいとか。そういう、まあ──普通は無理なことを、どうにかする係」

「……それ」

真壁さんが、目を見開いた。漫画家の目が、すっと鋭くなる。

「それ、普通の仕事じゃ、ないですよね」

「ええ。だから、最初は楽しかったんですよ」

俺は、笑った。

「俺が一本電話を入れれば、世界中の人が動いてくれた。閉まった扉が開いて、無いはずの花が届いて、お客様が『ありがとう』と言ってくれる。誰かを、幸せにできる。それが、嬉しくて、たまらなかった」

茶を、もうひとくち。

「でもね」

「だんだん、休みが、なくなっていったんです」

俺は、淡々と続けた。深刻ぶらないように。ゴミ出しの話でもするように。

「世界中のお客様が、時差なんて関係なく、いつでも俺を呼んだ。真夜中も、明け方も。一秒でも返事が遅れると、信用が落ちる。だから、肌身離さず、連絡の道具を持っていました」

俺は、自分の手のひらを見た。

「あの頃の俺は、たぶん──人間、じゃなかったんです。『二十四時間、いつでも、どんな無理でも叶えてくれる、便利な道具』。みんなが、そう思っていたし。俺自身も、そう思おうとしていた」

リビングは、しん、と静まっていた。

「ある夜、何人ものお客様から、同時に、無理難題が来ました。全部、すぐに、完璧に、叶えろと。連絡の道具が、ひっきりなしに鳴って──」

そこで、俺は、言葉を切った。

「鳴って、鳴って、鳴り止まなくて。その音を聞いた瞬間に──俺の、なかの、何かが」

切れた、と言いかけて、やめた。

「……ぷつん、と、いったんです」

俺は、できるだけ軽く言った。

「気づいたら、俺は、その道具を、海に投げ捨てていました。全部、放り出して。誰にも何も言わずに、職場から、消えたんです」

「消えた、って」

ゆめちゃんの声が、震えていた。

「逃げたんですよ。世界中の人を幸せにする、自慢の仕事から。みっともなく、ね」

俺は、笑おうとした。でも、上手く笑えなかった。

「今でも」

俺は、ぽつりと言った。

「通知の音が──スマホの、あの、ピコン、っていう音が、鳴るのを聞くと。今でも、心臓が、ばくばくして、冷や汗が出るんです」

四人が、息を呑んだ。

「俺がスマホを持たないのは、機械に弱いからじゃ、なくてね。あの音が、怖いんです。いい歳をして、お恥ずかしい話ですが」

──ああ、これだ。

俺は、ようやく、その言葉にたどり着いた。ずっと、自分でも上手く言えずにいた、いちばん奥の理由。

「俺はね、皆さん」

俺は、顔を上げた。四つの顔が、まっすぐ俺を見ていた。

「俺は──人を幸せにする仕事に、疲れて、しまったんです」

言ってしまうと、それは、思ったよりずっと軽い言葉だった。なのに、口にした俺の方が、ぐらりと揺れた。

ずっと、誰にも言えなかった。情けなくて。人を幸せにするのが嫌になるなんて。そんな、罰当たりなことを、思ってしまった自分が。

「……ばかみたいでしょう」

俺は、俯いた。

「人を幸せにできる、すごい仕事だったのに。それを、疲れたなんて理由で、放り出して。逃げた先で、こうして、賄い係をやってる。情けない、おじさんですよ。俺は」

言い終えて、俺は、俯いたまま、湯呑みを両手で包んだ。冷めかけた茶の温もりが、じんわりと、指に伝わってくる。

リビングは、しんとしていた。誰も、何も言わない。

その沈黙が、これから、どんな言葉に変わるのか。俯いていた俺は、まだ、知らないでいた。

第41話 人を幸せにする仕事に、疲れて

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。