第28話

誰もいない、リビング

その日の夕方。

リビングに、怜さんが帰ってきた。珍しく、定時に近い時間だった。

「ただいま……って、誰もいないと、なんか変な感じね」

ソファに鞄を投げて、怜さんが部屋を見回す。いつもなら、まひるさんが帰宅報告で騒いで、ゆめちゃんがスマホ片手にソファを占領しているはずの時間だ。それがない。

「お盆ですからね。賑やかなのが、二人ばかり減ると」

「ね。……静かすぎて、落ち着かない」

怜さんが、苦笑した。

台所に立った俺は、今日は精進料理を作っていた。お盆だから、というほどの信心は俺にもないが、それでも、季節のものを食卓に出すのは、嫌いじゃない。

胡麻豆腐。揚げ出しの高野豆腐。茄子とししとうの煮浸し。きのこの含め煮。肉も魚も使わない。それでも、乾し椎茸と昆布を一晩水に浸しておけば、出汁は驚くほど深く澄む。

前の晩から仕込んだ茶色い水に、鼻を近づける。きのこと海の、滋味の匂いがふわりと立った。

動物のものを使わなくても、これだけで、ちゃんと満ちる。

ことこと、と鍋が鳴る。煮浸しの茄子が、出汁を吸って、つやつやと色を深めていった。

そうめんも、茹でた。氷を浮かべた器に、つるりと泳がせて。みょうが、生姜、大葉。薬味をたっぷり刻んで添える。

夏の終わりの、胃にやさしい食卓だ。

「いい匂い」

怜さんが、台所を覗きにきた。

「精進料理、ですか。地味だけど、こういうの、染みる」

「お疲れでしょう。今日は、軽めにしておきました」

そこへ、奇跡のように、真壁さんが部屋から下りてきた。髪はぼさぼさ、目の下にはクマ。だが、足取りは、餓死寸前というほどではない。

「……飯の、匂いがした」

「ちょうどよかった。座ってください」

三人で、食卓を囲んだ。普段は四人、五人で賑わう大きな食卓が、今日は三人だと、やけに広く感じる。

「いただきます」

そうめんを、それぞれにすする。つるつると喉を通る。冷たい麺に、薬味の香りが立つ。

しばらく、誰も喋らなかった。ただ、麺をすする音と、氷の溶ける音だけが、リビングに満ちていた。

それが、嫌な静けさではなかった。

「……管理人さんって」

ふと、真壁さんが口を開いた。

「お盆、どこにも帰らないんですね」

俺は、箸を止めた。

「ええ。帰る家は、もう、ないので」

「ご家族は」

「いません。ずいぶん前から、一人ですよ」

怜さんが、ちらりとこちらを見た。俺は、なんでもないことのように、煮浸しを口に運んだ。

「昔はね、お盆なんて、休んだことなかったんですよ。むしろ、世の中が休む時こそ、いちばん忙しい仕事でしたから。みんなが帰省したり、旅行したりする、その先で待ってる仕事でしてね」

そこまで言って、俺は、ふと口をつぐんだ。

言いすぎた、と思った。

「……その仕事って」

真壁さんが、すかさず食いついた。職業柄、人の話の隙を見逃さない人だ。

「なんだったんですか。管理人さんの、前の仕事」

「たいしたものじゃ、ないですよ」

俺は、そうめんをすすった。

「人の世話を焼く、というだけの仕事です。今と、たいして変わりません」

「でも、お盆が忙しいって。旅行とか、旅館とか、そういう」

「さあ、どうだったかな。もう、昔のことですから」

はぐらかしたつもりは、なかった。ただ、あの頃のことを、進んで話したいとは、思えなかった。

通知音が、まだ怖い。どこかで誰かのスマホが短く鳴っただけで、今でも、肩が小さく跳ねる。秒刻みで無理難題が降ってきた、あの日々。胸の奥が、きゅっと冷たくなる。

だから、スマホは持たない。固定電話だけにした。だから、ここにいる。

それを、どう説明すればいいのか、俺には分からなかった。

「……まあ、いいですけど」

真壁さんが、ふいと視線を逸らした。けれど、その横顔には、なんともいえない引っかかりが残っているのが、分かった。

二人が、それぞれの部屋へ戻ったあと。

食器を洗っていると、真壁さんが、もう一度だけ下りてきた。

「あの。さっきの」

流しの前で、彼女が、言いにくそうに言葉を探していた。

「私たち、毎日、管理人さんのご飯、食べてるじゃないですか。当たり前みたいに。──でも、考えたら、私、管理人さんのこと、何も知らないなって」

俺は、手を止めた。

「名前と、料理が上手いことと、犬の世話してることくらいで。それ以外、ほんとに、何も。どこから来た人なのかも、なんでここにいるのかも」

真壁さんが、まっすぐにこちらを見た。

「ずるくないですか、それ。こっちのことは、ぜんぶ知ってるくせに。私が締切で死にかけてることも、ゆめが寂しがりなことも、ぜんぶ、お見通しで。なのに、自分のことは、何も言わない」

その言葉に、悪意はなかった。ただ、本当に、不思議で、少しだけ、寂しそうだった。

「……すみません」

俺は、それしか言えなかった。

「俺の話なんて、聞いても、面白くないですから。それより、皆さんの話を聞いてるほうが、ずっといい」

「それが、ずるいって言ってるんです」

真壁さんは、ふくれて、それでも、もう追及はしなかった。

「……まあ、いいですけど。いつか、気が向いたら、聞かせてくださいよ。締切が、明けたら」

そう言って、彼女は二階へ戻っていった。

第28話 誰もいない、リビング

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。