第40話

守る人を、守るのは

「無理、ですか」

俺は、笑って、受け流そうとした。

「いや、別に。普通ですよ」

「ほら、それ」

累さんが、れんげの先を、俺に向けた。

「『普通』。管理人さん、しんどいとき、絶対『普通』って言う。私、ずっと観察してたから、知ってるんです」

ぎくり、とした。

「あの日の夜、私、トイレ起きたとき、見たんです。管理人さんが、台所で、ひとりで、右手、ぐーぱー、してた。あれ、疲れたときの、癖でしょう」

怜さんが、はっと、こちらを見た。まひるさんも、ゆめちゃんも。

「あの怖い顔って……たぶん、ものすごく、消耗するんだよね。管理人さん、平気な顔して、いつも私たちのために、それを出してくれてる。あの日だって、怜さんのために」

累さんは、まっすぐに、俺を見た。

「でも、その後、誰にも甘えないで、ひとりで、台所で、ぐーぱーしてた」

俺は、何も言えなかった。

こういうのは、初めてだった。

誰かの心配ごとを、聞くのは、慣れている。誰かの疲れに、気づくのも、得意なつもりだ。けれど、自分が、その目で、見られることには。

「管理人さん、いっつも、与えてばっかりだよね」

ゆめちゃんが、ぽつりと言った。

「ごはん作って、話聞いて、私たちのこと守って。でも、自分は、誰に、ごはん作ってもらってるの? 誰に、話、聞いてもらってるの?」

「……」

「管理人さんは、誰に、甘えてるんですか」

その問いに、俺は、答えを持っていなかった。ずっと、考えたことが、なかったからだ。

俺は、与える側だ。それが、登美さんに拾われたときから、決めたことだった。もう、受け取る側には、戻らない。戻れない。そう、思っていた。

「……俺は」

口を開いて、けれど、続きが出てこなかった。

「あのね」

怜さんが、静かに、言った。

「私、母に言ったんです。『私の人生は、私が決める』って。──それ、管理人さんに、教わったんですよ。管理人さんが、あの日、私の家だって、言ってくれたから」

「……」

「だから、今度は、私たちが言います」

怜さんは、れんげを置いて、まっすぐに、俺を見た。

「ここは、管理人さんの家でも、あるんです。私たちの家であると同時に。だから──たまには、甘えてください。守ってもらってばっかりは、こっちが、落ち着かないので」

四人が、頷いた。

俺は、なんと言っていいか、わからなくて。ただ、湯気の立つ鍋を、見ていた。

胸の奥の、古い場所が、ことりと音を立てた。それは、第1話の夜に蓋をした、あの場所と、同じところだった。

「……ありがとう、ございます」

やっと、それだけ、言った。

「俺、たぶん……甘え方を、忘れてるんで。思い出すのに、少し、時間がかかるかもしれません」

「いいよ」

累さんが、笑った。

「ゆっくりで。私たち、待つの、得意だから。──ね?」

ほかの三人が、うん、と頷いた。

足元で、小麦が、俺の膝に、大きな頭を、ぐいと載せてきた。

鍋を、締めまで、平らげた。

最後は、残った出汁に、ごはんと溶き卵を入れて、雑炊にした。具材から溶け出した旨味を、米が、余さず吸う。宴の、いちばん最後の、贅沢な一杯だ。

みんなが、はふはふと、それをすすった。

「あー、生き返るー」

ゆめちゃんが、お腹をさすって、ソファに、ぐったりと沈んだ。

笑い声が、リビングに、満ちていた。冷えていた家が、ちゃんと、温まって、ここが「帰る場所」だと、誰もが、思っている顔だった。

俺は、その光景を、台所から、見ていた。

守る人を、守るのは。

考えたことが、なかった。けれど、もしかしたら、それは──。

そこまで考えて、俺は、首を振った。今は、いい。今は、ただ、この温かさを、見ていたい。

夜が更けて、みんなが部屋に戻り、家が静かになった頃。

俺は、ひとり、台所で、洗い物をしていた。蛇口の水音だけが、響いている。

握った右手の指を、ゆっくりと、開いては、閉じた。今夜は、もう、冷たくなかった。

そのときだった。

管理人室の、固定電話が、鳴った。

りん、りん、と。

夜の十一時を回っている。こんな時間に、固定電話が鳴ることは、めったにない。

俺は、手を拭いて、受話器を取った。

「……はい、常夜灯です」

電話の向こうで、しばらく、沈黙があった。それから、聞こえてきたのは、ずいぶん、年老いた声だった。

『……柏木さん、ですか。あの、柏木(かしわぎ) 周(あまね)、さん』

その呼ばれ方を、俺は、知っていた。

「管理人さん」でも「周さん」でもない。フルネームで、そう呼ぶ人間は──もう、この世界に、ほとんど、残っていないはずだった。

受話器を持つ手に、知らず、力が入った。

『あなたを、ずっと、探していました。──昔の、あの件で』

柱時計の振り子が、こつ、こつ、と鳴っている。その音が、やけに、遠く聞こえた。

窓の外で、冬の雨が、また、降りはじめていた。

第40話 守る人を、守るのは

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。