第47話

累さんの、新連載

夜。

締切明けの累さんが、ふらりと台所に現れた。目の下のクマが薄くなっている。きれいな顔の日だ。

「柏木さん。ちょっと、聞いてほしいことが」

柏木さん、と。いつからか累さんは、俺をそう呼ぶようになっていた。

メンチカツサンドを出すと、彼女は片手でそれを摘んで、もう片方の手で液タブを差し出した。ラフ帳の、新しいネームだった。

「次の連載、決まりそうで。それで、ずっと考えてて」

肉汁の滴るサンドを齧りながら、累さんは画面をスクロールした。

「今までの私の漫画って、全部、派手なバトルとか、すごい異能とか、そういうのだったの。覆面で描いてるのも、そのほうが、売れるから」

「ええ」

「でも、今度のは、なんでもない話なの。古い家で、ご飯を作る人と、そこに帰ってくる人たちの、ただの、日常の話」

俺は画面を覗き込んだ。そこに描かれていたのは──台所に立つ、エプロン姿の、誰か。

「これ……」

「言わないで」

累さんが、ぴしゃりと遮った。その頬が、見る間に赤く染まっていく。

「モデルとか、そういうのじゃないから。たまたま。たまたま、こういう、地味なおじさんを、描きたくなっただけで」

「はあ」

「とにかく。覆面のままだけど、初めて、『素の自分』が描きたいものを、描く。バトルじゃなくて、湯気の立つ、こういう話を」

累さんは、液タブをぎゅっと抱えて、早口で言った。

「……怖いけど。売れなかったら、どうしようって。でも、描きたいから」

「いいと思います」

俺は、静かに言った。

「君が描きたいものを描いた漫画は、きっと、誰かの帰る場所になりますよ」

累さんは、サンドを齧る手を止めた。それから、何か言いかけて、やめて、液タブで顔の下半分を隠した。

「……肉汁、垂れてますよ」

「言わないでってば!」

その夜、四人はリビングに集まっていた。

俺が片付けをしながら聞くともなしに聞いていると、怜さんが、ぽつりと言った。

「私たち、ここに来て、変われたね」

少しの沈黙のあと、まひるさんが首を振った。

「ううん。変わってないですよ、私たち」

「え?」

「だって、私、今でも電話怖いし。ゆめちゃんも、すぐ拗ねるし。累さんも、相変わらず締切でボロボロだし」

ゆめちゃんが「失礼な」と笑い、累さんが「事実だけど」と頷いた。

「ただ──」

まひるさんは、台所のほうをちらりと見た。俺は気づかないふりで、皿を拭いた。

「帰る場所が、できただけ」

四人が、静かに笑った。

火花も、独占欲も、もう、微笑ましい日常の一部になっていた。「私だけの管理人さんだったのに」と頬を膨らませるのも、「抜け駆けは許さない」と睨み合うのも、全部、この家の、いつもの夜の風景だった。

俺は、その背中たちを見ながら思った。

誰も、劇的には変わっていない。ただ、それぞれが、ほんの少しだけ、前へ。

──それで、いいんだ。

茶の湯気が、灯りのなかで静かに揺れていた。

桜が、咲いた。

中庭の真ん中に立つ、一本の老木。登美さんがずっと大切にしていたという、古い桜だ。それが今年も、ふわりと淡い雲のように咲いた。

「今日は、花見にしましょうか」

俺がそう言うと、四人の目がぱっと輝いた。

朝から、台所は戦場だった。俺は二段の重箱を、卓いっぱいに広げていた。

筍(たけのこ)ご飯。掘りたての筍を米ぬかでアク抜きして、出汁で炊き込む。蓋を開けると、ほろ苦い春の香りがふわりと立ちのぼった。

「うわ、いい匂い」

ゆめちゃんが鼻をひくつかせて、台所を覗き込む。

「つまみ食い、禁止ですよ」

「えー」

桜エビのかき揚げは、油の温度を見計らってさっと揚げる。じゅわ、と音を立てて、薄紅色のエビが衣のなかで弾けた。香ばしい匂いが台所に満ちる。

衣を、薄く。揚げすぎず、エビの香りを立たせる。油のなかで薄紅色がぱっと鮮やかに咲く瞬間が、いちばん旨い。それを、逃さない。

──桜エビは、釜揚げより生のほうが、香りが立つ。

頭のなかでそんなことを呟きながら、手はもう、次の一品へ動いていた。

だし巻き卵は、いつもより甘く。蕗(ふき)の薹(とう)の天ぷらは、ほろ苦さを揚げて和らげて。煮しめ、菜の花のおひたし、鯛の昆布締め。そして、桜の塩漬けを散らした、淡い桃色のおにぎり。

「これ、全部、一人で作ったんですか」

まひるさんが、重箱を覗き込んで目を丸くした。

「まあ、慣れてますから」

「慣れてるって、レベルじゃ……」

第47話 累さんの、新連載

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。