第14話

電話が、取れました

その夜。

「今日、電話、一本だけ、取れました」

夕飯の席で、七瀬さんが、小さな声で報告してきた。

俺は、湯のみを置いた。

「そうですか。よく頑張りましたね」

「……でも、すっごい噛みました。声も裏返って」

「いいじゃないですか。取ったんですから」

朝、あんなに指先を冷たくしていた人が、午後、その電話を、自分で取った。噛んでも、裏返っても、取った。それは、すごいことだ。本人が思っているより、ずっと。

七瀬さんは、なぜか、ちょっと泣きそうな顔をして、それから、思いきったように口を開いた。

「あの……周さんって、本当は、何をしてた人なんですか? 今朝の、晩餐会の話とか……」

ほうじ茶を、ひとくち飲んだ。

「昔のことですよ」

それだけ言って、立ち上がり、台所へ戻った。

話すほどのことでもない。今の俺は、この家の台所番だ。それで、じゅうぶんだった。

背中で、七瀬さんの視線を感じた気がしたが、湯気の向こうのことは、よくわからなかった。

梅雨が明けて、七月になった。

朝のうちに、庭の笹を一本切ってきて、リビングの隅に立てた。床の間のあたりに、すらりと緑が伸びて、葉先が窓からの風に、さらさらと揺れている。

「七夕ですからね。願い事、書いてください」

色とりどりの短冊と、油性ペンを盆に載せて、テーブルに置いた。赤、青、黄、ピンク。短冊には、もう紐を通してある。こういうのは、紐を通すところから楽しいものだ。

「いいですね、こういうの。映えそう」

ゆめちゃんが、スマホを構えて笹を撮りながら言った。

「ゆめちゃんは何書くの」

「うーん……『フォロワー一万人』とか?」

「現実的ですねえ」

ソファの方からは、怜さんが、ぐったりした声で「『有給が全部消化できますように』」と呟いて、誰にともなく手を合わせていた。仕事帰りのスーツのまま、クッションに顔をうずめている。よほど疲れているらしい。あとで、温かいものでも出そう。

「怜さん、夢がないですね」

「夢だけで生きていけたら苦労しないのよ、ゆめちゃん」

そんなやりとりを横に、七瀬さんが、ピンクの短冊を一枚、手に取った。ペンを持ったまま、しばらく、考え込んでいる。何を書こうか、迷っているのだろう。

それから、何かを書いて――書いてから、ぱっと頬を赤くした。ちらり、と、なぜか台所の方を見る。俺と目が合うと、慌てたように、目をそらした。

そうして、書いた短冊を、二つに折りたたんで、笹のいちばん奥の、見えにくい枝に、こっそり結びつけた。

恥ずかしい願い事だったのかもしれない。若い人の願い事は、人に見られたくないものだろう。俺は、見なかったことにした。

「お待たせしました。素麺です」

大きなガラスの器に、氷を浮かべた素麺を運んだ。きん、と冷えた水の中で、白い麺が透き通っている。薬味の小皿には、刻んだみょうがと、生姜と、大葉。そして、星の形に切ったオクラを、ちょこんと添えた。

「わ、お星さま」

ゆめちゃんが声を上げる。

「七夕なので、ちょっとだけ」

我ながら、子どもじみた趣向だ。少し、照れた。

器の底で、氷が、からんと涼しい音を立てる。素麺は、つるつると光って、水の中で、白い天の川みたいに見えた。

七瀬さんが、みょうがと生姜を、つゆの小鉢に、たっぷり放り込んだ。よく食べる人だ。今朝の電話のことは、もう、少し落ち着いたらしい。

「んー、生き返るぅ」と、累さんが、目を閉じてつゆをすする。締切明けの、ボサボサ髪のままで。

「累さん、三日ぶりにまともなご飯食べてません?」

「失礼な。一昨日、ゼリー飲料を飲んだもん」

「それ、ご飯じゃないですよ」

そんなやりとりに、みんなが笑った。

みんなで素麺をすすりながら、笹を眺めて、それぞれの短冊の話で笑い合う。怜さんの『来世はもっと寝たい』に全員が共感し、累さんの『締切が消滅しますように』に、小麦が「くぅん」と同情した。

いい夜だ、と思った。この家に、こういう夜が増えていくのが、俺はいちばん嬉しい。

笹の奥で、七瀬さんがこっそり結んだピンクの短冊が、風に、ちらりと揺れた。二つに折りたたまれて、中身は見えない。

あの子が、あんなに恥ずかしそうに折りたたんだ願い事。それを、俺が翌日、うっかり目にしてしまうことになるとは──このときの俺は、まだ知らないでいた。

第14話 電話が、取れました

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。