第35話

人を祝うのは、得意なんですけどね

誰かが、俺のために灯りを消して、待っていてくれる。俺のために、ケーキを焼いて、何度も練習までしてくれる。胸の奥が、なんだか、ぐっと詰まった。喉が熱くなって、俺は慌てて、目元を片手で覆った。

「……いやだなあ」

なんとか笑おうとした。けれど、声が震えていた。

「歳を取ると、涙もろくて、いけませんね」

四人が、ぽかんとしていた。それは、そうだろう。俺はいつも、飄々としていた。何があっても、慌てず、騒がず、ただ笑って飯を作る男だった。その俺が、いま、ろうそく一本の灯りを前に、目元を覆って立ち尽くしている。

「……管理人さん」

まひるさんが、おそるおそる言った。

「もしかして、泣いて……」

「泣いてませんよ」

俺はぐい、と目元を拭った。

「泣いて、ないです」

明らかに、声が湿っていた。四人が、顔を見合わせた。

俺は深呼吸をひとつして、できるだけいつもの調子で言った。

「……困りましたね」

「困った?」

「ええ。あの。俺、人を祝うのは、得意なんですけどね」

苦笑して、頭をかいた。

「祝われるのは……どうも、勝手が、分からなくて。何を、すればいいのか」

その一言で。四人の何かが、ふっと解けたのが分かった。

「……何もしなくていいんですよ」

最初に口を開いたのは、怜さんだった。いつもの早口でも、仕事モードの敬語でもない。やわらかい声だった。

「祝われる人は、ただ、にこにこ笑って、ろうそくを、消すだけです」

「……それだけ、ですか」

「それだけです」

俺は、ろうそくの前にしゃがんだ。ずいぶん長いこと灯してこなかった灯りが、ゆらゆらと揺れていた。

「……ふう」

ひと息で、消した。

ぱちぱち、と四人が拍手をした。小麦が、わん、と吠えた。煙がひとすじ、天井へ立ちのぼっていった。

ケーキは、お世辞にも上手とは言えなかった。生クリームは甘すぎたし、スポンジは、少し固かった。苺だけが、やたらと瑞々しかった。

けれど。俺は、その一口を、ゆっくりと噛みしめた。

スポンジの、不揃いな気泡。塗りむらの生クリーム。瑞々しい苺の酸っぱさ。そのどれもが、口のなかで、じんわりとほどけていく。

「……美味しい」

ぽつり、と零れた。

「お世辞、いらないですよ」

ゆめちゃんが、唇を尖らせた。

「お世辞じゃ、ないです」

俺は、首を横に振った。

「本当に、美味しい。──こんなに、美味しいケーキ、初めて、食べました」

それは、嘘ではなかった。誰かが、俺のことを思って、不器用に、何度も練習して焼いてくれた。その味が、まずいわけがなかった。

「ねえ、管理人さん」

苺を頬張りながら、まひるさんが言った。

「今度は、私たちが、覚える番ですからね」

「覚える?」

「管理人さんの好きなもの。大事な日。気分まで、ぜんぶ」

「いつも、してもらってばっかりだから」と、ゆめちゃん。

「たまには、させてください」と、累さん。

怜さんが、おちょこをこちらに傾けた。

「乾杯、しましょうか。──主役に」

四つのグラスと、一つのおちょこが、ことん、と合わさった。

その夜は、ずいぶん賑やかだった。四人が笑って、喋って、ケーキを食べて、小麦がおこぼれをねだって。俺は、その輪の真ん中で、ただ笑っていた。

──不思議なものだ。

いつも、俺はこの輪の外側にいた。飯を作り、灯りを灯し、誰かの帰る場所を守る。それが、俺の場所だった。それで、十分だと思っていた。

なのに、今夜は。その輪の真ん中に、座らされている。

なんだか、落ち着かなくて、けれど──悪く、なかった。

夜が更けて。四人が、二階へ上がっていった。

「おやすみなさい、管理人さん」

「おやすみ。ありがとう、本当に」

階段の途中で、四人が振り返って、笑った。

その背中を見送って。俺は、しんと静まったリビングで、ひとり、消えたろうそくを片付けていた。溶けた蝋の跡を、指先でなぞる。

「……こんなの、何年ぶりだろう」

ぽつり、と呟いた。

何年ぶり、だっただろう。誰かに祝ってもらうこと。誰かが、自分のために灯りを消して、待っていてくれること。

人を祝うのは、得意だった。世界中の、誰かの特別な一日を、何百回となく作ってきた。けれど、その俺自身が、誰かに祝われた記憶をたどろうとすると。

──ずっと、ずっと、昔で。

その先には、もう、思い出したくない場所があった。俺は、軽く頭を振った。

「……やめよう。今日は、いい日だ」

蝋の欠片を、ゴミ箱に落とした。それでも、胸の奥に、ひとつ、小さな灯りが残っていた。

人を祝うのは、得意だ。それは、変わらない。ただ──祝われるのも、案外、悪くない。

そんなことを、四十二にもなって、初めて知った夜だった。

足元に、小麦がすり寄ってきた。その金色の頭を撫でる。

「お前も、ありがとうな。小麦」

小麦は、嬉しそうに目を細めた。

冷蔵庫には、ケーキがまだ半分ほど残っている。明日の朝、みんなで食べよう、と思った。きっと、一晩寝かせたほうが、生クリームが馴染んで美味い。

そう考えて、俺は、ひとり、ふっと笑った。

──ああ、明日の朝が楽しみだ、なんて。

そんなふうに思うのも、ずいぶん、久しぶりのことだった。

第35話 人を祝うのは、得意なんですけどね

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。