第13話

声だけが、全部になる

「気にしちゃいますよね、そういうの」

ことん、と、まな板にフライ返しを置いた。

「相手の顔が見えないぶん、声だけが全部になる。聞き返すのも勇気がいるし、怒ってる人の声って、ずっと耳に残りますしね」

七瀬さんが、目を見開いた。それから、肩から、すっと力が抜けるのがわかった。詰めていた息を、そっと吐き出すように。

何を、そんなに身構えていたのだろう。たぶん、「気にしすぎだよ」とか「慣れだよ」とか、そういうのを言われると思っていたのかもしれない。

俺には、言えなかった。怖いものは、怖い。それを「慣れろ」で済ませられるなら、誰も苦労しない。

「はい、できましたよ」

目の前に、丼を置いた。

つやつやと照りの出た豚肉を、ご飯の上に、これでもかと敷き詰めてある。タレを吸ったご飯。脇には、千切りのキャベツ。湯気と一緒に、生姜の効いた甘辛い匂いが、ふわっと立ち上がる。タレの照りが、朝の光を受けて、てらてらと光っていた。豚肉の縁が、ほんの少し焦げて、香ばしい。

「豚の生姜焼き丼です。今日はガッツリいきましょう」

「朝から、こんなに……」

「いいんです。豚肉はね、疲れたときの味方なんですよ」

自分のぶんのお茶を淹れながら、独り言みたいに続けた。

「豚肉のビタミンB1って、他のお肉の何倍も多くて。生姜とか玉ねぎと一緒に食べると、吸収がぐっと良くなるんです。今日みたいに、気合いを入れたい日には、ちょうどいい」

七瀬さんが、箸を取った。タレの染みた豚肉と、熱々のご飯を、一緒に口へ運ぶ。

その瞬間、止まっていた箸が、動きはじめた。一口、また一口。さっきまで、お腹に入らないと言っていたのが、嘘みたいに。

「……おいしい」

ぽつりと、零した。

ご飯粒のひとつまで、惜しむように食べてくれる。作った身には、これがいちばん嬉しい。

食べているあいだ、七瀬さんの顔から、強張りが消えていた。たぶん、ほんの少しのあいだだけ、怖いことを、忘れていられたのだろう。あたたかいものが腹に入ると、そういうことが、起きる。不思議なものだ。

食べ終わるころには、頬に、少し血の気が戻っていた。

それでも、また指先を擦り合わせている。午後のことを、思い出したのかもしれない。七瀬さんは、丼に残ったタレを箸の先でなぞりながら、ぽつりと言った。

「……周さんは、緊張とか、しないんですか。なんか、いつも落ち着いてて」

落ち着いて見えるなら、それは歳のせいだ。若い頃の俺は、もっとひどかった。

「俺もね」

ゴミ袋の口を縛りながら、答えた。ちょうど、燃えるゴミの収集日で、その朝に出すぶんをまとめていた。

「失敗、山ほどしてきましたよ。だから、わかります」

「周さんでも、失敗するんですか」

「しますよ。いっぱい」

そういえば、と思い出したことがあった。ずいぶん昔の話だ。

「某国の晩餐会を、一人で仕切ったときなんかね。緊張しすぎて、本番前に、厨房の裏で本気で吐きましたから」

七瀬さんの箸が、ぴたりと止まった。

「……え?」

「数百人ぶんの料理と、各国の要人の席次と、苦手な食材の確認と。全部、間違えたら国際問題ですからね。胃がもう、きゅーっと」

「ぼ、晩餐会……? 要人……? 各国の……?」

七瀬さんが、同じ単語を、ぽろぽろと、繰り返しはじめた。目が、丸い。なにか、頭の中で計算でもしているような顔だ。

「ええ。今思えば、よく吐いただけで済んだなあって」

しみじみと、麦茶を飲んだ。あれは本当に、生きた心地がしなかった。

「だ、だい……っ、それって、すごい、人たちの……?」

「昔のことですよ」

俺は、縛ったゴミ袋を持って、玄関の方へ運んでいった。今出さないと、収集車に間に合わない。

「ちょっと、待ってください、周さん。今の話、もっと――」

「あ、生姜焼き、冷めないうちに食べてくださいね。タレ、もう少しかけます?」

七瀬さんは、丼を持ったまま、固まっていた。

なにか、まずいことを言っただろうか。ゴミ出しのついでの、昔話のつもりだったのだが。若い人には、退屈な話だったかもしれない。

足元の小麦が、七瀬さんを見上げて、首をかしげていた。お前も、なんだと思ってるんだ、その顔は。

第13話 声だけが、全部になる

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。