第30話

今夜は、すき焼きにしましょうか

夜。

俺は、台所に立った。

せっかくの和牛だ。一人で、あるいは特別な日に、しまっておくのも考えたが──やめた。こういうものは、みんなで囲むのが、いちばん旨い。

「今夜は、すき焼きにしましょうか」

そう言うと、住人たちの目の色が、変わった。

鉄鍋を熱して、牛脂を溶かす。じゅう、と脂が鳴って、香ばしい匂いが立つ。

まず、肉を一枚。熱した鉄に乗せると、じゅわっと、肉がほどけるように縮む。霜降りの脂が、たちまち溶けて、鍋の上で透きとおっていく。

砂糖を、ぱらり。醤油を、回しかける。割下では煮ない。まず焼いて、甘辛く絡める。それが、俺のすき焼きだ。

じゅう、と砂糖が焦げて、甘辛い湯気が、ぶわっと立ちのぼった。

「うわ、ずるい匂い……」

ゆめちゃんが、鼻をひくつかせる。

焼けた肉を、溶き卵にくぐらせて。

「ほら、まず一枚目。焼けたてが、いちばん旨いですから」

ゆめちゃんが、おそるおそる、肉を口に運んだ。

箸が、止まった。

「……っ、なにこれ」

目を見開いて、彼女は固まっていた。

「とろけた……肉が、口の中で、消えた……」

霜降りの脂は、口の中の体温で、すっと溶ける。卵のまろやかさが、甘辛い味を、やさしく包む。

「美味しい……」

ゆめちゃんが、ぽろっと、子どもみたいな顔で言った。いつもの、お洒落で大人ぶった顔が、すっかり剥がれていた。

そこからは、戦争だった。肉を焼くそばから、四本の箸が伸びてくる。ねぎを入れ、焼き豆腐を入れ、しらたきを入れ。鍋の汁が煮詰まれば、酒と出汁で割って。

帰省から戻ったまひるさんも、締切明けの真壁さんも、定時で帰ってきた怜さんも、みんな、夢中で鍋をつついた。

足元では、小麦が「クーン」と、世にも切なげに鳴いていた。

「これは小麦のじゃないよ。お前には、あとでちゃんとしたのを作るから」

垂れ耳の犬は、不服そうに鼻を鳴らして、それでも諦めて、ベッドに戻った。

腹がくちくなった頃。

怜さんが、日本酒のグラスを傾けながら、しみじみと言った。

「ねえ、管理人さん。私、前から不思議だったんだけど」

「はい」

「あなたみたいな人が、なんで、こんな古い家の、管理人なんてやってるの。──失礼な言い方かもしれないけど。あなた、たぶん、その気になれば、もっとすごい場所で、もっとすごい仕事が、できる人でしょう」

リビングが、しんとした。みんなが、俺の答えを待っていた。

俺は、自分のグラスを、ゆっくりと傾けた。

「……すごい場所には、もう、いたんですよ」

ぽつり、と。

「いろんなものが、ありました。最高級の食材も、世界中からの注文も。秒単位で、人が俺を呼んだ。必要とされてる、って、思ってました」

「うん」

「でも、ある日、ぜんぶ、嫌になっちゃったんです。なんでだか、自分が、人間じゃなくて、便利な道具になってる気がして。誰のために飯を作ってるのか、分からなくなって」

俺は、グラスの中の酒を見つめた。

「逃げ出したんです。みっともなく。それで、行き倒れてるところを、登美さんに拾われて。──一杯の、白いお粥に」

そこで、俺は言葉を切った。これ以上は、まだ、言えなかった。

なぜ、世界の頂点を捨てたのか。その、本当のところは、まだ、自分の中でも、うまく言葉にできない。

ただ、住人たちは、もう、何も訊かなかった。ただ、静かに、聞いていてくれた。

「ここが、いいんですよ」

俺は、笑った。

「最高級の松茸より、皆さんが『美味しい』って言ってくれる、その一言のほうが、俺には、ずっとご馳走なんです。──変ですかね」

誰も、変だ、とは言わなかった。

怜さんが、ふっと目元を緩めて、グラスを掲げた。

「……乾杯。なんかよく分かんないけど、すごい人が、うちのご飯作ってくれてることに」

「すごい人じゃ、ないですよ」

「はいはい。ただの、ご飯が好きなおじさん、でしょ」

「ええ。それで、十分です」

夜が更けて。

みんなが二階へ上がったあと、俺は、片付けをしながら、ふと、リビングの黒板を見た。明日の献立を書こうと、チョークを手に取る。

そのとき、ふいに、第一話で佐和子さんに言われた言葉が、よみがえった。

『母があなたに遺したもの、ちゃんと、ぜんぶ開けた?』

押し入れの奥の、あの箱。手紙のほかに、まだ、何かがある。

俺は、チョークを置いて、しばらく、管理人室のほうを見つめていた。足元で、小麦が「ふぁ」と欠伸をした。

「……お前は、知ってるのか。登美さんが、俺に何を遺したのか」

犬は、ただ、つぶらな瞳で、俺を見上げているだけだった。

俺は、小さく笑って、チョークを取り直した。黒板に、明日の献立を書く。

『すき焼き、余りました。明日はカレーうどんにします』

その下に、いつもの一言を、添えた。

『おかえりなさい』

台所の灯りを消すと、暗がりの中で、固定電話の黒い影が、静かに佇んでいた。箱を開けるのは──もう少しだけ、あとにしよう。

今はまだ、この温かい食卓を、もう少し、味わっていたかった。

第30話 今夜は、すき焼きにしましょうか

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。