第36話

迎えに来た、過去

その夜、怜さんは、ごはんを残した。常夜灯(じょうやとう)に来てから、初めてのことだった。

きっかけは、一本の電話だったらしい。

俺がそれを知ったのは、夕方のことだ。仕事帰りの怜さんが、玄関で靴を脱ぐより先に、廊下にしゃがみ込んでいた。トートバッグを膝に抱えて、スマホの画面を、じっと見ている。

「お帰りなさい」

声をかけても、顔を上げなかった。

「……ただいま」

返ってきた声が、いつもの早口の敬語ではなかった。ずっと小さくて、芯が抜けていた。

俺は、何も聞かなかった。聞かれたくない夜は、聞かないでいるのが、いちばんいい。ただ、台所に戻って、火を見ていた。

怜さんは、強い人だ。

広告代理店のチーフで、アートディレクター。部下を束ね、無茶なスケジュールをさばき、クライアントの「なんか違う」を、徹夜で形にしてきた人。常夜灯でいちばん、鎧が分厚い人だった。

その鎧が、ある一点でだけ、紙のように薄くなる。

母親の前で。

外でどれだけ完璧でいても、家のなかには、ほどけない結び目がある。怜さんにとって、それは、母親だった。

俺は、湯呑みを拭きながら、廊下のほうに、耳を澄ませていた。しばらくして、怜さんの、押し殺した声が、切れぎれに聞こえてきた。

「……うん。ごめんなさい。私が、悪かった……ううん、ちゃんとする。ちゃんと、するから……」

謝っていた。何に対してかも、わからないまま。ただ、ひたすら、謝っていた。

いつもの早口の敬語は、どこにもなかった。電話の向こうの相手に、許しを乞う、小さな子どもの声だった。

俺は、火を、少し弱めた。

煮立てると、出汁は濁る。人の心も、たぶん、同じだ。煮立てる前に、火を引く。沸かさない、その手前で、止めてやる。

その夜の献立は、ぶり大根だった。

寒くなってきたから、じっくり煮込むものがいい。大根は米のとぎ汁で下茹でして、苦みを抜いてある。ぶりはアラを霜降りにして、生臭さを落とす。骨と皮から、ゼラチンと旨味が、ことことと出汁に溶けていく。

冬の労りは、手間のかかるものに限る。時間をかけて煮たものは、食べる人に「待っていた」と伝わる。

大根に、出汁が、しみている。箸を入れると、すっと割れて、断面から湯気が立つ。

いつもの怜さんなら、これに日本酒を一合、つけてほしいと言う。けれどその夜は、おちょこを出さなかった。

「……いただきます」

そう言って箸を取った怜さんは、大根をひとくち、口に運んで、それきり、止まってしまった。噛んでいるのに、飲み込めない、という顔だった。

「美味しい、です。ほんとに。でも……ごめんなさい。今日、入らなくて」

箸を置いた手が、わずかに震えていた。

「すみません。せっかく、作ってもらったのに」

「いいんですよ」

俺は、皿をそっと引いた。

「無理に食べるもんじゃない。ラップして取っておきます。明日のほうが、味が染みて美味しいので」

「……明日」

怜さんは、その言葉を、空っぽの目で繰り返した。明日が、来てほしくない、という顔をしていた。

事情を聞いたのは、まひるさんからだった。

風呂上がりに、こっそり台所まで来て、声をひそめて教えてくれた。怜さんと同じフロアだから、壁越しに、電話の声が聞こえてしまったらしい。

「怜さんのお母さんが……明日、ここに来るって」

「来る」

「実家に、連れ戻すって。怜さん、ずっと、電話で謝ってて。『私が悪かった』『ちゃんとする』って。何回も、何回も」

まひるさんは、自分のことのように、眉を寄せた。

「怜さん、あんなに仕事できる人なのに。電話のときだけ、別人みたいになるんです。小さい子みたいに、なっちゃって」

俺は、湯呑みを拭く手を、止めた。

外で隙を見せない人ほど、その結び目だけは、何十年も、固いままなのだ。子どものころに結ばれた糸は、大人になっても、自分の指では、ほどけない。

「ありがとう、まひるさん。教えてくれて」

「あの……管理人さん」

まひるさんが、不安げに、上目遣いに俺を見た。

「怜さん、連れていかれちゃうんですか」

俺は、少しだけ笑った。

「それは、怜さんが決めることですよ。誰かに、決められることじゃない」

夜が更けて、家が静かになってから。

俺は、土鍋に湯を沸かした。

ぐつぐつ煮るものではなく、ただ、温める。胃の弱った夜に、いちばんやさしいものを。卵を一個、溶いて、出汁にそっと流す。とろりとした、玉子のおじや。米はやわらかく、塩はごく控えめに。

弱った体は、味の濃いものを受けつけない。だから、出汁の旨味だけで、満たしてやる。

湯気が、ふわりと立つ。

その匂いを連れて、俺は二階の廊下の隅、怜さんの部屋のドアの前に、小さな盆を置いた。おじやの椀と、れんげと、梅干しをひとつ。それだけ。

ノックは、しなかった。声も、かけなかった。ただ、ドアの隙間から漏れる灯りに向かって、聞こえるか聞こえないかの声で、ひとこと。

「……無理しなくて、いいですよ。ここでは」

灯りは、消えなかった。

しばらくして、ドアの向こうで、椀を取る、かすかな物音がした。それを確かめてから、俺は、階段を下りた。

れんげが椀にあたる、こつ、という控えめな音が、灯りの隙間から、細く漏れてくる。出汁の匂いだけが、まだ、廊下にうっすらと残っていた。

明日、この家に、あの人が来る。──それが、俺にとっても、思っていた以上に長い夜の、始まりになるとは。このときの俺は、まだ知らないでいた。

第36話 迎えに来た、過去

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。