第20話

これを、見てくれる人

「僕は昔、いろんな人の『これが好き』というのを、たくさん選んできたことがあって」

ゆめちゃんが、まばたきをした。

「どんな人が、どんなものを見て、ほっとするか。どんな色が、疲れた人の心をほどくか。そういうのを、ずっと見てきました。だから、分かります」

ふと、昔のことが、頭の隅をかすめた。くたびれた顔で扉をくぐってきた人が、部屋に通した瞬間に、ふっと肩の力を抜く。あの瞬間のために、俺はずいぶん長いこと、色や、灯りや、布の手触りを選んできた。

——でも、それはもう、終わった仕事だ。

「……元、何の人なの」

「ただの管理人ですよ」

俺は、立ち上がって、台所に向かった。それ以上は、言わなかった。言うつもりもなかった。

ただ、彼女の作品の良さだけは、本当のことだったから、それだけは伝えたかった。慰めでも、お世辞でもなく。見えたものを、見えたとおりに。

「お腹、すいてませんか」

「え……」

「焼きおにぎり、作りますよ。すぐできるので」

俺は冷やご飯を握って、形を整えた。きつく握りすぎない。中に空気を残すように、ふんわりと。そうすると、焼いたときに、外はかりっと、中はほろりとほどける。表面に薄く醤油を塗って、網に乗せる。

じゅう、と音がした。

醤油がこげて、香ばしい匂いが立ちのぼる。塗ってすぐの醤油は、まだ尖った塩辛さだ。けれど火に炙られると、角が取れて、奥から発酵した穀物の甘い香りが顔を出す。麹が長い時間をかけて醸した匂いが、最後のひと炙りで一気にほどける。焦げる醤油の匂いというのは、どうしてこう、人の腹を鳴らすんだろう。

おにぎりの表面が、こんがりとあめ色になっていく。縁が、かりっと焦げる。米の一粒一粒が立って、ぱちぱちと小さくはじけた。二度、刷毛で醤油を重ねた。そのたびに、じゅう、と音がして、湯気と一緒に香りが部屋に広がった。香ばしさの奥に、ほのかな甘みがある。米そのものの、甘みだ。

足元で、小麦が「くぅん」と鳴いて、鼻を上げた。

「お前のじゃない」

俺は焼けたおにぎりを皿に乗せて、ゆめちゃんの前に運んだ。外はかりっと、中はほかほかの焼きおにぎり。湯気が、まっすぐ立っている。

ゆめちゃんは、それを両手で持った。あちあち、と言いながら、口元に近づける。湯気が、彼女の眼鏡を曇らせた。慌てて眼鏡を外す彼女の目は、まだ赤い。それでも、一口かじった。

かり、と外側が音を立てた。

外側の、香ばしい醤油の焦げ。その内側の、ふっくらした白い米。焦げの香ばしさと、米の優しい甘みが、口の中で混ざる。

「……っ、美味しい」

今度は、隠さなかった。口にご飯粒をつけたまま、彼女はもう一口、かじった。しばらく、無心で食べていた。

食べる速さが、だんだん落ち着いてきた。最初はかきこむみたいに食べていたのが、後半は、味わうみたいになっていた。一口ごとに、少し間が空く。

俺は、その間に、麦茶をひとつ、彼女の前に置いた。何も言わずに。ゆめちゃんは、それをこくりと飲んで、ふう、と息をついた。

食べ終えるころ、ゆめちゃんはぽつりと言った。

「ねえ、おじさん」

「はい」

「さっきの、色の話」

「はい」

「あれ……わたし、意識してやったの。裏地、ちょっとだけ見えるようにしたの。動いたときに、きれいに見えるように」

彼女の声が、少し湿っていた。

「誰も、気づいてくれなかった。コンテストも落ちたし。フォロワーも減ったし。誰も、見てくれてないと思ってた」

ゆめちゃんは、空になった皿を見つめた。

「でも、いた。一人だけ、見ててくれた人が」

俺は、何も言わなかった。

「数字じゃなくて……これを、ちゃんと見てくれる人が、いた」

彼女は、手の甲で、目元をぐいとぬぐった。

「……べつに、泣いてないけど」

「はい」

「焦げたおにぎりが、目にしみただけ」

「はい。次から、もう少し弱火にします」

ゆめちゃんが、ふっと笑った。それから、皿を流しに運びながら、流しの前で立ち止まって、こちらを振り返った。

「ねえ、管理人さ……」

言いかけて、彼女は唇を結んだ。一瞬、しまった、という顔をして、それから、照れ隠しみたいにわざと言い直した。

「……おじさん、ほんとに、何者なの?」

俺は、首をかしげた。

「何者って言われても。ただの、ご飯が上手なおじさんですよ」

「ぜったい、それだけじゃないでしょ」

ゆめちゃんは、目を細めて俺を見た。さっきまでの赤い目が、今はちょっと面白がっているみたいに光っていた。そういう目で見られても、俺には本当に、心当たりがない。

「さ、夜食、もう一個焼きますか」

「食べる」

即答だった。

「あ、でも、太るからやめとく。……やっぱ食べる」

「どっちですか」

「半分」

俺は、もう一つ握った。

足元では小麦が、まだ皿のほうを未練がましく見ていた。

二階の窓の向こうで、夏の夜が、静かに更けていった。

第20話 これを、見てくれる人

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。