第4話

ここの、ちいさなルール

その日は、不思議な一日だった。四人とも、夕方になると、なんだかそわそわし始めたのだ。

LINEで「今帰る」と送れない。だから、夕飯が要るか要らないか、黒板に書いていく。

『遠野 夕飯いります』

『七瀬 いります!』

『ゆめ いる』

『累 たぶん生きてたら食べる』

──たぶん生きてたら、か。

俺はその文字を見て、ふっと笑った。

そのあいだに、俺は小麦を連れて、近所へ買い出しに出た。商店街の豆腐屋のおかみさんが、「あら、常夜灯の新しい管理人さん?」と声をかけてくれた。

「登美さんには、世話になったのよ。あの人の遺した家を継いだんなら、あんたも、いい人なんだろうね」

そう言って、おまけに揚げを一枚、袋に入れてくれた。

人の縁というのは、ありがたいものだ。スマホがなくても、こうして、ちゃんと繋がっている。

そして、夕飯の時間。驚いたことに、四人とも、判で押したように、寄り道もせず帰ってきた。遠野さんは、いつもなら同僚と飲んで帰る日でも。小田切さんは、友達と遊びたい盛りの年頃なのに。

「……なんか、お腹すいちゃって」

七瀬さんが、照れたように言い訳した。

「家のご飯が、気になって」

遠野さんも、ばつが悪そうに、付け加えた。

「……今日、飲みの誘い、断っちゃった。なんでだろうね。家に、ご飯があると思うと」

俺は、何でもないふりをして、土鍋の蓋を開けた。ぶわっと、湯気が立った。

今夜は、具沢山の鍋だ。豚肉と、ほうれん草と、白菜。ぐつぐつと煮える出汁の匂いが、リビングいっぱいに広がる。

「常夜鍋、っていうんです」

「じょうや、なべ」小田切さんが、湯気の向こうで目をぱちくりさせた。それから、ふっと頬をゆるめる。「……この家、常夜灯でしょ。じゃあ、常夜灯と常夜鍋で、おそろいじゃん」

常夜鍋は、毎晩でも飽きないから、その名がついたのだと聞いた。けれど、その由来を口にする前に、小田切さんが、常夜鍋にもっといい意味を見つけてくれた気がした。

外で何があっても、ここに帰れば、温かいご飯がある。そう思えるだけで、人は、まっすぐ帰ってこられるらしい。

食卓を囲む四人を見ながら、俺は、台所でひとり、湯気の向こうに目を細めた。連絡先も交換していない。スマホもない。それなのに、みんな、夕飯の時間に合わせて、ちゃんと帰ってくる。

こんなアナログなやり方が、まだ通じるんだな。

足元の小麦が、誰かのこぼした一粒を、ぺろりと舐めた。

「明日は、何にしましょうか」

俺がそう呟くと、遠野さんが、味噌汁から顔を上げた。

「……肉じゃが、とか」

ぽつり、と。それは、なんでもない、おふくろの味の代名詞みたいな一皿だった。

「いいですね」

俺は、頷いた。

まさかその一皿が、明日、この家を、ひっくり返すことになるとは。この時の俺は、まだ、知る由もなかった。

その人は、夕方、ふらりと常夜灯にやってきた。遠野さんの仕事関係の客だという。打ち合わせの帰りに、どうしても寄りたい家があると言って、ついてきたらしい。

「初めまして。南雲(なぐも)と申します」

きっちりとした品のあるスーツに、よく手入れされた手。年の頃は五十くらいだろうか。柔らかな物腰の女性だった。

遠野さんが、少し緊張した様子で、俺に耳打ちした。

「あの方、すごい人なんです。テレビにも出てる、有名なフードコーディネーターで。料理の世界では、知らない人がいないくらいの……」

「へえ。それは、緊張しますね」

俺は、特に何も思わず、お茶を淹れた。料理の偉い人が、わざわざこんな所に。こんな古い家の、こんな家庭料理を出す所より、上等なお店なら、いくらでもあるだろうに。

南雲さんは、リビングをぐるりと見渡した。味のある無垢材の食卓。暖炉。軋む床。リビングの隅で、ヘソ天で寝ている小麦。

「素敵なお宅ですね。なんだか……ほっとします」

「恐縮です。古いだけが取り柄でして」

俺がそう言うと、南雲さんは、ふっと笑った。

ちょうど、夕飯の支度ができたところだった。土鍋には、ことことと、肉じゃがが煮えている。牛肉と、ほっくりしたじゃがいも、飴色になるまで炒めた玉ねぎ。出汁をたっぷり含んで、てらりと照りの出た、ただの──実家の味の、肉じゃが。

玉ねぎは、じっくり炒めると、糖が立って、甘くなる。じゃがいものでんぷんが、煮汁にほんのりとろみをつけて、味が、舌に長く残る。

そういうことを、俺はいちいち考えてやっているわけじゃない。ただ、手が、勝手に「美味しくなるほう」へ動くだけだ。

「よかったら、南雲さんも。お口に合うかわかりませんけど」

俺は、何の気なしに、彼女の前にも一皿、よそった。偉い料理の先生に、こんな粗末なものを出していいものか、と少し迷ったけれど。

南雲さんは、「まあ、いいんですか」と、嬉しそうに箸を取った。

じゃがいもを、ひとつ。南雲さんが、口に運んだ。

その瞬間だった。彼女の動きが、ぴたりと止まった。箸を持ったまま。じゃがいもを噛みしめたまま。ゆっくりと、目を見開いていく。

「……」

リビングが、しんと静まった。遠野さんも、七瀬さんも、小田切さんも、真壁さんも。何ごとかと、南雲さんを見つめている。

南雲さんは、震える指で、もう一口、汁を口に含んだ。そして、信じられないものを見るように、俺を見上げた。

「……この、出汁の引き方」

声が、かすれていた。

「玉ねぎの甘みの出し方。肉に火を入れる、この絶妙な頃合い。……間違いない」

彼女は、すっと立ち上がった。

「あなた──まさか。数年前に、忽然と表舞台から消えた……あの、伝説の……」

俺は、おたまを持ったまま、きょとんとしていた。何の話だろう。

南雲さんの目は、まるで、神様にでも会ったみたいに、潤んでいた。

「世界中の要人が、あなたの一皿のために来日した。あなたが消えてから、業界は何年も、あなたを探していたんです。あの方ですよね。柏木(かしわぎ)──」

第4話 ここの、ちいさなルール

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。