第9話

小麦、ダイエット大作戦

事件は、体重計の上で起きた。

「……増えてますね」

俺は、小麦(こむぎ)を抱えて獣医から戻ったところで、リビングのみんなにそう報告した。

定期検診で、小麦の体重が、先月より一キロ近く増えていた。先生いわく、「このサイズの子の一キロは、人間でいう数キロです。おやつ、あげすぎてませんか」と。

リビングがしんと静まった。

ソファに座る遠野(とおの)さん。ダイニングのまひるさん。床に座ってタブレットをいじっていたゆめちゃん。ブランケットにくるまった累(るい)さん。

全員が、ふいに、目をそらした。

「……あの」

最初に口を開いたのは、まひるさんだった。

「私、夜、帰ってきた時に……生姜焼きのお肉、一切れだけ、あげちゃってました。すみません……すごく、おねだりされて」

「私もよ」

遠野さんが、ため息をついた。

「晩酌してると、足元で、あの目で見上げてくるから。ちくわを、一本」

「うちはチーズ……」

ゆめちゃんが、小さく手を挙げた。

「トーストの、はじっこのとこ。だって、可愛いんだもん」

「私は……」

累さんが、ぼそりと言った。

「メンチカツの衣を……夜中に……一緒に……」

俺は、頭を抱えたくなった。つまり、全員が、「自分だけはこっそり」あげていたわけだ。小麦からすれば、四人分の夜食のおこぼれを、毎晩ローテーションで頂戴していたことになる。そりゃあ、太る。

「みなさん」

俺は咳払いをした。

「今日から、おやつは、禁止です」

その瞬間。

小麦が、俺を見上げた。垂れた耳。うるうるした、大きな黒い目。首を、こてんと傾げる。

「……くぅん」

「……」

リビングの全員が、息を呑んだ。

「無理」

ゆめちゃんが即座に言った。

「無理だよあれは。あの顔で禁止って、人類には無理」

「ゆめちゃん、しっかりして」

まひるさんが言ったが、その声も震えていた。

俺は、努めて冷静に続けた。

「小麦の体のためです。それに、みなさんが普段食べているものの中には、犬にあげてはいけないものも、あるんですよ」

「え、そうなの?」

ゆめちゃんが顔を上げた。

「チョコレートは、有名ですよね。あれは、犬には毒なんです。少量でも、心臓や神経に来ます。ゆめちゃん、ココアも、絶対にあげちゃだめですよ」

「……知らなかった。あげなくてよかった」

ゆめちゃんが青ざめた。

「玉ねぎやネギも、だめです。赤血球を壊して、貧血を起こします。だから、生姜焼きのタレが染みたお肉も、本当はよくない。まひるさん」

「ひっ……す、すみません……!」

まひるさんが、頭を抱えた。

「ぶどうやレーズンも危ない。腎臓に来ます。あとは、キシリトール。ガムとか、甘味料に入ってるやつ。これも、犬には強い毒です」

「……知らないことばっかり」

遠野さんが、感心したように言った。

「あと、アボカドも、よくないんですよ。それから、お酒は、絶対にだめです。人間には少しでも、犬には命に関わる」

「お酒……」

遠野さんが、はっとした顔をした。

「私、晩酌してる時に、ちくわをあげてました。でも、もし、間違えて、おつまみの……」

「ええ、だから、晩酌のときは、特に気をつけてください。小麦は、人が美味しそうに食べてると、何でも欲しがるので」

俺がそう言うと、足元の小麦が、まるで分かっているみたいに、「くぅん」と鳴いた。

リビングに、小さな笑いが起きた。

「だから、おやつは、俺が安全なものを作ります。それ以外は、禁止。いいですね」

「……はーい」

四人が、しおしおと頷いた。

――はずだった。

その夜から、常夜灯(じょうやとう)は、奇妙な緊張に包まれた。

俺が夜、キッチンの片付けをしていると、廊下の奥から、こそこそとした足音がする。振り返ると、誰もいない。気のせいかと思って、また手を動かす。すると、今度は反対側から、衣ずれの音がする。

第9話 小麦、ダイエット大作戦

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。