第29話

賄い係だっただけ、ですよ

夜更け。

固定電話が、静かに鳴った。受話器を上げると、まひるさんの、明るい声がした。実家の固定電話から、わざわざかけてきたらしい。

「あ、管理人さん! 無事に着きました。今、おばあちゃんちで、お饅頭食べてます」

「それはよかった。ゆっくりしてきてくださいね」

「はい! ……あの」

少し、声のトーンが変わった。

「なんか、変なんですけど。実家、すごく落ち着くはずなのに。ご飯食べてても、ふと、常夜灯のこと、思い出しちゃって。管理人さんのご飯、もう恋しいです」

俺は、思わず笑った。

「まだ二日目ですよ」

「分かってるんですけど! ……管理人さんにも、帰りたい場所って、あるんですか」

ふいの問いだった。俺は、受話器を握ったまま、少し考えた。

帰る家は、もう、ない。帰る家族も、いない。

でも──

「……ここが、そうなりつつ、ありますよ」

そう答えると、電話の向こうで、まひるさんが、くすぐったそうに笑った。

「なにそれ。私たちの家なのに」

「ええ。皆さんの、家です。でも、皆さんが帰ってくるのを待ってるあいだに、いつのまにか、俺の帰る場所にも、なってたみたいで」

受話器の向こうが、少し、静かになった。

「……はやく、帰りますね」

まひるさんが、ぽつりと言った。

電話を切って、俺は、暗いリビングを見回した。

明日は、何を作ろうか。二人が帰ってきたら、好物を出してやろう。まひるさんには生姜焼き丼を、ゆめちゃんには、あのトーストを。

そんなことを考えていると、足元で、小麦が「ふぁ」と欠伸をした。

「お前も、二人が帰ってくるの、待ってるか」

金色の頭を撫でると、犬は、尻尾をぱたんと一つ振った。

帰る場所がある人も、ない人も。この家では、みんな、誰かの「おかえり」を、待っている。

黒塗りの車が、常夜灯の前に停まったのは、よく晴れた秋の昼下がりだった。

その日、家にいたのは、俺と、真壁さんと、帰省から戻ったゆめちゃんの三人だった。

中庭で小麦にブラシをかけていると、まひるさんが血相を変えて駆け込んできた。

「か、管理人さん! 外に、すっごい車が……!」

「車?」

玄関を開けると、たしかに、立派な黒塗りの車が、塀の前に堂々と停まっていた。ぴかぴかに磨かれた車体。スモークガラス。およそ、この古びた洋館の前にはそぐわない。

運転席から、黒いスーツの男が降りてきた。きっちりと撫でつけた髪。隙のない物腰。手には、大きな桐の箱を、うやうやしく抱えている。

男は、俺の顔を見るなり、深々と一礼した。

「柏木様。ご無沙汰しております」

「……ええと」

俺は、記憶を探った。見覚えが、ある。たしか、あの人の──

「ピエールさんの、秘書の方でしたか」

「左様でございます。本日は、オーナーよりの言伝と、お届け物がございまして」

リビングに、住人三人が、こっそり顔を覗かせていた。ゆめちゃんが、スマホ片手に、目を真ん丸にしている。

「ちょっと待って。なに、あの黒服。ドラマじゃん。管理人さん、何者……?」

秘書の男は、桐の箱を、恭しく食卓に置いた。そして、蓋を、すっと開ける。

中に、整然と並んでいたのは──牛肉だった。

霜の降りた、見事なサシ。きめ細かく、しっとりと光を弾く、上等な肉。それだけじゃない。箱の隅には、見るからに高級そうな海老や、艶やかな松茸まで、丁寧に詰められていた。

「うわ……」

真壁さんが、思わず声を漏らした。

「これ、なんか、すごい肉……」

「最高級の和牛でございます。海老は、伊勢の活け締めのもの。松茸は、今朝、山から下ろされたばかりのものを」

秘書が、淡々と説明する。

「オーナーが、ぜひ柏木様にと。『あの男に、また旨いものを作ってもらいたい。これを、賄いにでも使ってくれ』と」

賄いにでも。俺は、その肉を見下ろして、思った。

──また、ピエールさんは、こういうことを。

「いつも、すみません。お気遣いなく、と伝えてもらえますか」

「いえ。オーナーは、柏木様にお返しできる恩は、これしきのことでは到底足りないと、常々申しております」

恩、と言われても。俺は、首をひねった。

昔、あの人が困っていたとき、たまたま、ちょっとした料理を出しただけだ。それだけのことで、いまだに、こうして気にかけてもらっている。

たいしたことは、していないのに。

「では、わたくしはこれで」

秘書は、もう一度深々と頭を下げると、来た時と同じように、滑るように去っていった。黒塗りの車が、角を曲がって消えていく。

リビングには、桐の箱と、高級食材と、ぽかんとした俺たちが残された。

「……ねえ」

最初に口を開いたのは、ゆめちゃんだった。

「ねえ、おじさ……管理人さん。今の、なに。なんなの」

「差し入れ、ですね」

「差し入れのレベルじゃないでしょ! 黒塗りの車だよ! 秘書だよ! オーナーって何! あの肉、絶対、私の一ヶ月の生活費より高いよ!」

ゆめちゃんが、肉の箱を指さして、わなわなと震えている。

真壁さんは、腕を組んで、じっと俺を観察していた。

「管理人さん。スマホも持ってないのに、なんで、海外の大富豪から差し入れが来るんですか」

「海外、なんて言いましたっけ」

「ピエールって。今、言いましたよね」

──しまった。

まひるさんが、おそるおそる訊いてきた。

「あの。管理人さんの、前のお仕事って……もしかして、すごい、人だったんですか」

俺は、肉を冷蔵庫に仕舞いながら、できるだけ何でもないことのように答えた。

「いえ。本当に、ただの賄い係でしたよ。たまたま、関わった人が、たまたま、ちょっと偉い人だっただけで」

「ちょっと偉い人は、黒塗りの車で松茸を届けないんですよ……」

真壁さんが、頭を抱えた。

第29話 賄い係だっただけ、ですよ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。