第34話

ケーキ、三回練習したんです

その夜、管理人室で。固定電話が、けたたましく鳴った。

こんな時間に、珍しい。この番号を知る人間は、片手で数えるほどしかいない。

俺は、受話器を取った。

「はい、常夜灯です」

『あらぁ、周さん。久しぶりねえ』

聞き覚えのある、しわがれた、けれど張りのある声。昔、世話になった、ある料亭の女将だった。

「女将さん。ご無沙汰しています」

『元気にしてた? あなた、相変わらず、こんな電話一本でしか、捕まらないんだから』

「ええ、まあ。お変わりなく?」

『おかげさまでねえ。この前なんて、また妙な人たちが、あなたを探しに来たのよ。「柏木さんの連絡先を」って。もちろん、教えやしないけどね』

「……お手数を、おかけします」

『いいのよ。あなたが見つかったら、また連れ戻されちゃうもの。──ああ、そうそう。それより周さん』

女将の声が、ふっと、柔らかくなった。

『今年も、お誕生日、おめでとう。来週でしょう』

俺は、受話器を握ったまま、少し、黙った。

「……覚えていてくださったんですか」

『当たり前じゃないの。あなたの誕生日くらい。毎年、忘れたことなんてないわよ』

そのとき。管理人室のドアが、ほんの少し、開いていた。

麦茶のおかわりを、届けに来てくれたのだろう。まひるさんが、盆を手に、廊下に立ち尽くしていた。ドア越しに、聞こえてしまったのだ。

──来週。来週が、管理人さんの、誕生日。

まひるさんの目が、まんまるに、見開かれていた。俺は、まだ、その視線に、気づいていなかった。

『じゃあね、周さん。ちゃんと、ご飯食べるのよ』

「……はい。ありがとうございます」

受話器を、そっと置いた。カチャリ、と、静かな音がした。

翌朝から、常夜灯は、妙に落ち着かなかった。

二階が、やけに、ざわついている。四人が、何やら、ひそひそと、けれど興奮した様子で、相談している。俺が近づくと、ぴたりと、口をつぐむ。そして、四人が、揃って、こちらを見た。その目が、なんだか、きらきらしていた。

「……どうしました。みなさん」

「なんでもない!」

声が、見事に、揃った。

それから数日、四人は、やたらと、こそこそしていた。廊下でぱたぱたと足音がして、俺が顔を出すと、ぴたりと止む。買い物に出たかと思えば、紙袋を後ろ手に隠して帰ってくる。台所で何かしようとすると、「いいから、管理人さんは座ってて!」と追い出される。

「……俺、何か、しましたかね」

小麦に訊いてみた。小麦は、何も知らないというふりをして、けれど、しっぽが隠しきれずに、ぶんぶんと振れていた。

その日。夕食どきになっても、誰も台所に来なかった。

おかしいな、と思いながら、俺はいつものように夕飯の支度をしていた。そろそろできますよ、と声をかけようとした、そのとき。リビングの灯りが、ふっと消えた。

「……あれ。ブレーカーかな」

俺はエプロンで手を拭いて、リビングへ向かった。そして、ドアを開けた瞬間。

ぱっ、と灯りがついた。

「サプライズ! お誕生日、おめでとうございます!」

四人が横一列に並んで、声を張り上げていた。怜さん。まひるさん。ゆめちゃん。累さん。その真ん中に、誇らしげに座った、小麦。

テーブルの上には、手作りらしいケーキ。少しいびつだった。生クリームの塗り方が、あちこちでよれている。苺は、数だけはたくさん載っていた。真ん中には、火の灯ったろうそくが、四十二本──ではなく、四本と二本、ちょこんと立っていた。

『HAPPY BIRTHDAY 管理人さん』

そう書かれた手作りの飾りが、壁にぶら下がっていた。

──その瞬間の俺の顔を、たぶん、住人の誰も、見たことがなかったと思う。

俺は。立ち尽くした。何か言わなければ、と思った。けれど、言葉が出てこなかった。

「……あの」

口を開いた。けれど、その先が続かない。四人の顔と、ケーキと、ろうそくの灯りを、何度も見比べた。

「えっと……これは」

声が、少し上ずっていた。

「俺の……ため、ですか?」

「そうですよ!」

まひるさんが、目をうるうるさせながら頷いた。

「いつも、私たちのこと、祝ってくれるじゃないですか。だから、今日は、私たちが」

「来週が誕生日って、聞いちゃったんで」と、ゆめちゃん。

「フライングだけど。サプライズは、当日より、こっちのほうが、驚くでしょ」と、怜さん。

「ケーキ、私たちで焼いたんですよ。失敗しないように、三回も練習して」と、累さん。

俺は、ろうそくの灯りを見つめていた。ゆらゆらと揺れる、小さな炎。

──こんなの、いつ以来だろう。

第34話 ケーキ、三回練習したんです

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。