第39話

さっきの、あの人は誰

リビングの入口には、いつのまにか、まひるさんと、ゆめちゃんと、累さんの三人が、息を呑んで立っていた。階段の途中から、ずっと、聞いていたらしい。

三人とも、揃って、ぽかんとしていた。

「……ねえ」

最初に口を開いたのは、ゆめちゃんだった。

「さっきの人、誰……?」

「え?」

俺は、きょとんとした。

「いや、俺ですけど」

「そうじゃなくて! 声、別人だったし。あんなにスパッと、言い返して。法律とか、すらすら出てきて。管理人さん、あんな喋り方、できるの」

「……普通のこと、言っただけですよ?」

三人が、顔を見合わせた。普通ではない、という顔で。

足元で、小麦が、ようやく尻尾を振りはじめた。冷えていた家の空気が、戻ってきた、と知らせるように。

俺は、湯気の立つカップを、怜さんの前に置いた。

「どうぞ。冷める前に」

怜さんは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、両手でカップを包んだ。その温かさに、ほっと、肩から力が抜けたのが、見てとれた。

ひとくち、飲んで。

「……あったかい」

そう、呟いた。

その声に、もう、芯が抜けていなかった。

「離れて、いいんだ」

怜さんが、ぽつりと、そう言ったのは、その三日後の夜だった。

母親が帰ってから、怜さんは、少しずつ、戻ってきた。

翌日には、ごはんを、ちゃんと食べた。その次の日には、出社した。帰ってきて、玄関で靴を脱ぎ散らかして、リビングに倒れ込む、いつもの怜さんに。

そして、三日目の夜。

俺が、鍋の支度をしていると、怜さんが、台所に来た。

「管理人さん」

「はい」

「あのね。母に……ちゃんと、電話したんです」

おたまを持つ俺の手が、止まった。

「『私は、ここにいる』って。『心配してくれてありがとう、でも、私の人生は、私が決める』って。──三十一年、初めて、言えました」

怜さんは、少しだけ笑った。けれど、その笑みは、まだ、こわばっていた。

「言ってる途中、声、震えてました。心臓も、すごい音、立ててて。──正直、勝った、とか、そういうのじゃ、全然なくて」

袖口を、指で、きゅっと握る。

「ただ、怖かったのを、ひとつ、越えられた。それだけなんです。電話、すぐ切られちゃったけど。でも──言えたこと自体が、なんか、すごく」

「ですね」

「離れて、いいんだ、って。初めて、思えました。嫌いになるんじゃなくて。ただ、ちゃんと、別の人間として、離れて、いいんだって」

俺は、頷いた。

震える声で、それでも、受話器を置かなかった。きっと、それが、いちばん難しいことだ。家族を、嫌いになる必要はない。ただ、自分の人生の手綱を、ほんの少しだけ、自分の手に取り戻す。それだけのことが、人によっては、何十年もかかる。

「ごはん、できますよ。今夜は、鍋です」

「鍋?」

「常夜鍋。豚肉と、ほうれん草だけの、シンプルなやつ。毎晩食べても飽きないから、常夜鍋っていうんです」

怜さんが、ふっと笑った。

「常夜灯の、常夜鍋。……前に、ゆめちゃんが言ってましたね。おそろいだって」

「よく、覚えてましたね」

俺も、つられて笑った。

その夜は、四人が、リビングに揃った。

土鍋を囲んで、まひるさんと、ゆめちゃんと、累さんと、怜さん。

昆布だしを張った鍋が、ことこと鳴っている。豚の薄切りを、さっと湯にくぐらせる。ほうれん草を、しゃぶしゃぶと泳がせる。ポン酢につけて、はふはふと頬張る。

「あつっ……でも、おいし……!」

まひるさんが、口をはふはふさせながら、目を細める。

豚肉のビタミンB1が、疲れた体に効く。ほうれん草の鉄分が、それを助ける。湯気が、四人の顔を、やわらかく照らしている。

「怜さん、お酒は?」

俺が訊くと、怜さんは、少し考えて、首を振った。

「今日は、いいです。素面で、覚えておきたいから。みんなで、こうやって、鍋つついてること」

その言葉に、ゆめちゃんが「えー、なに、いい話ぽくしないでよ」と茶化して、みんなが笑った。

小麦が、テーブルの脇で、物欲しそうに鍋を見上げている。

「小麦は、だめだよ。ねぎ類は、犬には毒なんだ。あとで、お前のごはんを、ちゃんと用意するから」

俺がそう言うと、小麦は、わかったような、わからないような顔で、「くぅん」と鼻を鳴らした。それを見て、また、みんなが笑った。

冷えていた家が、すっかり、温まっていた。

鍋が、半分ほど減った頃。

累さんが、れんげを置いて、ふいに、俺を見た。人間観察が、職業の人だ。その目が、いつもより、静かだった。

「ねえ、管理人さん」

「はい」

「管理人さん、さっきから、自分の分、ほとんど食べてないよね」

俺は、おたまを持ったまま、きょとんとした。

「そうでしたっけ」

「そうだよ。みんなのお椀には、よそってるのに。自分の前のお椀、空っぽのまま」

言われて、自分の椀を見た。たしかに、ほとんど、減っていなかった。みんなが食べる手を、見ているうちに、自分が食べることを、忘れていたらしい。

「ああ、ほんとだ。じゃあ、いただきます」

そう言って、豚肉を、ひとくち。

けれど、累さんの目は、まだ、こちらを見ていた。

「……それと、ね」

「はい」

「あの日から──怜さんのお母さんが来た日から、管理人さん、ちょっと、無理してない?」

リビングの空気が、ふっと、変わった。

第39話 さっきの、あの人は誰

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『常夜灯のおかえりご飯』は、冴えない管理人さんの夜食と、疲れた女性たちの「ただいま」をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。