第1話 001

婚約破棄、ありがたく承ります〜社畜OLの記憶を取り戻した瞬間、ガッツポーズが出た件

「ロザリンド・エイベル! 貴様との婚約は、本日をもって破棄する!」

王宮の大広間。建国記念の夜会、その真ん中で。

アルフレッド王太子おうたいしの声が、シャンデリアの下に響き渡った。

居並ぶ貴族たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。ざわめきが、波紋のように広がっていく。

扇の陰で口元をゆがめる若い令嬢。目を見合わせて固まる老臣たち。宰相派筆頭のガレオン伯爵はくしゃくが、まっさきに額を押さえた──「やってくれたな、殿下」と、書いてあるような手つきで。

──ああ、この国の縮図ね。

わらう者、戸惑う者、青ざめる者。誰一人、止めようとはしない。

「冷酷で、可愛げのない女。聖女せいじょミリアを陰でいじめ続けた、悪辣あくらつ公爵令嬢こうしゃくれいじょう……! 貴様のような女に、未来の王妃おうひは務まらん!」

アルフレッド様の隣で、聖女候補のミリア・ロウが、純白のドレスの裾を握りしめて、震えていた。

潤んだ瞳。控えめに伏せられた睫毛まつげ。完璧な角度でこぼれる、一筋の涙。

「アルフレッド様……私のために、そこまで仰らないで……」

──ああ、上手いわね。涙の止め方まで、計算されてる。

ロザリンドは扇を閉じて、まっすぐに王太子を見上げた。

「アルフレッド様」

「弁解は聞かんぞ!」

「いいえ。弁解ではございませんわ」

腹の底のほうで、何かが、静かに弾けた。

──「お前のような女は」。

別の声と、重なった。

『田中、お前みたいな女は、どこに行っても通用しないんだよ』

夜中の二時。蛍光灯。書類の山。

定時で帰る上司の背中。

翌朝、その机に、自分の企画書。名前だけ、消されて。

「──あ、これ、私のだ」

誰もいない給湯室で、そう呟いた声まで蘇った。

──ああ、思い出した。

過労で倒れた、田中律子たなかりつこという女がいた。

二十八年。誰にも見つけてもらえずに、死んだ。

そして私は今、その続きをやろうとしていた。

無給で旦那の尻拭しりぬぐい。笑顔で寵姫ちょうきを迎え、跡継ぎを産む。

名前は消えて、「王太子の妻」。

──冗談じゃない。

給金なし、休みなし、退職不可。

そのはずの椅子から、向こうが勝手に降りろと言ってくれている。

辞表は、向こうから来た。

(ありがたい)

「ロザリンド! 何を笑っている!」

アルフレッド様の声が、一段高くなる。

ロザリンドは扇を胸の前で軽く合わせて、深く、深く、頭を下げた。

「アルフレッド様。婚約破棄こんやくはきのお申し出、ロザリンド・エイベル、

「な……」

整えられたはずの王太子の表情に、初めて、隙間風のような動揺が走った。形のいい唇がぱくりと開く。頬の色が、見るまに赤から白へ転がり落ちていく。

「謹んで、お受けいたしますわ」

広間の空気が、ぴたりと止まった。

聖女候補のミリアの肩が、びくりと跳ねたのが、ドレス越しにわかった。

涙の角度が、一瞬、崩れた。

「お、お姉様……? あ、あの、そんな、ふうに、笑われては……」

ミリアの細い声が、わずかに上ずった。──お姉様、と彼女は言う。血の繋がりなど、ありはしないのに。男爵家から聖女候補として王都へ召されたその日から、人前でだけ、私をそう呼ぶ。震えはそのままだが、台詞の区切りが、ほんの少しだけ、ずれている。瞳の奥が、泳いでいる。

──あら、台本に書いてなかったの? 悪役令嬢が、泣き縋らないなんて。

ロザリンドは顔を上げて、聖女候補に、にこりと微笑んでみせた。

「冷徹な悪役令嬢」と呼ばれてきた女が、人前ではめったに見せない、本物の笑みだった。

「ミリア様。今後はあなたが王太子妃おうたいしひとなられるご予定、心よりおよろこび申し上げますわ」

「え……」

「アルバート王家の繁栄を、心から、お祈り申し上げます」

それは祝辞だった。同時に、最大級の皮肉でもあった。

ミリアにだけ、後者の意味が伝わったらしい。

聖女候補の白い指が、ドレスの布地を、ぎゅっと握りしめた。

涙の角度に隠れて、聖女候補の瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、。──まばたきひとつで、また濡れた瞳に戻る。

ロザリンドはそれに気づかなかったが、は見ていた。

ロザリンドはドレスの裾を片手で軽く持ち上げ、舞踏会の終わりに披露するはずだった最敬礼を、寸分の隙もなく決めてみせた。

最大級の礼が、最大級の皮肉になる角度。──頭の下げ方ひとつで相手を黙らせる技は、前世で嫌というほど磨いた。

そして内心で、片手だけ、こっそりとを決める。

──これで、この船から降りられる。

沈むことが帳簿の数字でわかっていた、この国という船から。

「父にも、すぐお伝えいたしますわ。──では、ごきげんよう」

ドレスの裾をひるがえして、ロザリンドはまっすぐに大広間の扉へ向かった。

背後で、誰かが扇の陰で囁くのが、かすかに耳に届いた。

「あれ、笑った……?」

「あの悪役令嬢が?」

引き止める声は、なかった。

そして広間の隅では、宰相派筆頭のガレオン伯爵が、すでに別の派閥の老臣の袖を引き、何事かを早口で囁き始めていた。──まだ王太子の声の余韻が消えないうちに、もう、足元の床が音もなく軋み始めていた。

正確には、王太子も聖女候補も、まだ事態を呑み込めていなかった。

そして、誰一人として気づいていなかった。

広間のいちばん奥、柱の影。氷のような無表情で、その一部始終を見届けていた長身の男がいたことに。

男の薄い青の瞳が、ロザリンドの後ろ姿を追って、ほんのわずかに、細められた。

広間を横切る歩幅。ドレスの裾の払い方。扇を畳む順序。──全部、見覚えがあった。

三年、図書館の窓辺で。舞踏会のテラスの端で。帳簿を抱えて執務室に向かう、夜明け前の回廊で。

「……ようやくか」

つぶやきは、隣の側近にしか届かない、低い声だった。

「閣下。ご準備を」

「ああ。

ヴェルナント大公国たいこうこく当主、ルーカス・ヴェルナント。

大陸中の令嬢たちの憧れ、「氷の大公たいこう」と呼ばれる男が、ゆっくりと、扉の方へ歩き出した。

ロザリンドは、まだ、知らない。

──この夜より前に、自分がもう三年も、その男に見られていたことを。

第1話 婚約破棄、ありがたく承ります〜社畜OLの記憶を取り戻した瞬間、ガッツポーズが出た件

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。