第52話 052

契約条件の見直しを提案します

朝の閣議室かくぎしつは、いつも通りの空気で始まった。

長机の上座かみざにルーカス。その斜向はすむかいに、ロザリンド。財務官、外交官がいこうかん、剣の達人の側近、書記官。冬の朝の光が、薄く磨かれた木の表面を滑っていく。

「では、議題一、東部関税の改定について」

書記官が読み上げる。ロザリンドは普段通り、数字を二、三秒で見終え、紅茶を一口含んでから、淡々と意見を述べた。

「東部の三品目はえ置き、北側の二品目だけ二パーセント下げてください。下げた分は半年で港湾こうわん使用料に転嫁てんか回収できます」

「採用」

ルーカスの即答そくとうも、いつも通り。

財務官が頷きながら羽根ペンを走らせる。外交官が次の書類をる。誰も、何も、おかしなことには気づかない。

ただ、剣の達人の側近、ディーター卿だけが、上座の主君しゅくんの横顔をちらりと盗み見た。

──……今朝、執務室で深いため息をついていらしたな。

それ以上は、表情を動かさない。仕える主君は、十八歳で即位そくいして以来七年、ため息一つで国境線が動くと噂された男だ。今朝のそれが何を意味するのか、軽率けいそつな推測は禁物である。

議題二、議題三。順調に進む。ロザリンドは項目ごとに鋭く処理し、ルーカスは即決裁そくけっさいする。

そして。

「では、議題十二まで終わりましたので、これにて――」

「書記官」

ロザリンドが、紅茶のカップをそっと置いた。

「項目十三を、お忘れですわ」

書記官の手が、止まる。

「……項目、十三?」

「ええ」

「し、しかし、昨夜お渡しした議題リストには、十二までしか……」

「今朝、追加いたしました」

静かな声だった。彼女はいつもの姿勢のまま、テーブルの端に置いていた一枚の紙を、書記官のほうへ滑らせる。

「雇用契約の見直しについて、です」

紙のこすれる音だけが響いた。

外交官が無言で書類を繰り直す。財務官は眼鏡めがねを押し上げ、項目十三を二度読み返した。ディーター卿は、視線をゆっくり主君のほうへ戻した。

ルーカスの表情は、まだ動いていない。

「……経済顧問殿」

ディーター卿が、慎重に口を開く。

「雇用契約の、見直し、と申されますと。報酬ほうしゅうの改定でしょうか。あるいは権限けんげんの拡張、もしくは」

「いいえ」

ロザリンドは、ゆっくりと立ち上がった。椅子を引く音。視線は、まっすぐ上座の主君へ。

朝の光が、彼女の銀髪をひと撫でして、机に落ちた。

「閣下。契約条件の、見直しを提案します」

静寂。

「婚姻と引き換えに、私の全能力を、

書記官の羽根ペンが、机の上に、こん、と落ちた。

その音だけが、しばらく室内に残った。

財務官は書類を逆さに持ち直したまま、自分の手元に視線を落とすことができないでいる。外交官は隣の侍従にささやいた。

「閣下に……求婚きゅうこん……それも契約条項として……」

「お静かに」

ディーター卿が短くせいしたが、その声もまた、わずかに震えていた。

ロザリンドは表情を変えない。手元の紙にもう一度視線を落とし、付け加える。

「補足いたします。第一に、私の経済顧問としての全権限と、それに付随ふずいする判断能力の譲渡。第二に、互いに敬意を払い合うこと。第三に、決裁における対等の権限。これらを軸とし、本契約はこれまでの雇用契約を上書きするものではなく、付帯ふたい条項として運用されることを想定しております」

財務官が、ようやく逆さの書類を直した。

「経済顧問殿。それは、つまり……」

「ええ。提案でございますわ」

ロザリンドは小さく頷く。

「閣下。ご検討、いかがでしょうか」

──そこで、空気が、変わった。

上座で、ルーカスが、わずかに息を吐いた。

それまで微動びどうだにしなかった氷の青い瞳が、ほんの少しだけ、見開かれている。普段は完璧な角度で正面を見据みすえている肩が、わずかに揺れた。

側近たちは初めて気づく。

主君の口元が、ゆるんでいる。

「ふ」

短く、息が漏れた。

「ふ、っ……」

それから――長年仕えたディーター卿すら、一度も聞いたことのない音が、上座から響いた。

笑い声だった。

低く、短い。けれど、紛れもなく、声を出した笑いだった。

氷の大公と呼ばれ、大陸じゅうの王女に求婚されても眉一つ動かさなかった男が、今、自分の閣議室で、片手で口元をおおい、肩を揺らして笑っている。

書記官は失神しっしんしかけている。外交官は、初めて見るものを見るように主君を凝視ぎょうしした。

「それは……」

笑いを噛み殺すような声で、ルーカスは言った。

「いや、まったく、君らしい」

ロザリンドはじっと立ったまま、彼の返事を待っている。

ルーカスは口元から手を離し、まっすぐ彼女を見た。笑いの余韻が、その薄い青の瞳に、これまで誰も見たことのない色を残している。

ロザリンドは、満足そうに、こく、と頷いた。

「ありがとうございます。では、契約書を起草いたしますわ。条項の細部は、午後にでも詰めましょう」

そう言うと、彼女は静かに椅子に戻り、紅茶を一口含んだ。

書記官は、ようやく羽根ペンを拾った。手が震えていて、拾うのに三回失敗した。

ディーター卿が、震えを必死で押し殺した声で、口を開く。

「……閣下」

「ああ」

「これは、その。お祝い、と、申し上げて、よろしいので」

ルーカスは、目元に残った笑いの余韻を、長い指で軽く拭った。それでもまだ、口角は完全には戻っていない。

「祝ってくれ」

彼は短く言った。

──六年。

その一言が、閣議室の全員の頭の中に、すうっと染みていく。側近たちが、それぞれの場所で、ゆっくりと天を仰いだ。

ロザリンド嬢が顧問として参じた、その三年前。王太子主催のパーティに、主君が自ら足を運ばれ帰ってきた。あのとき、いつになく機嫌よく執務に戻られたのを、皆が覚えている。

あれは──つまり、そういうことだったのか。

財務官が、書類を、もう一度逆さに持った。

ロザリンドだけが、その視線の意味にもまるで気づかず、紅茶のカップを置きながら、書記官に向かって続けた。

「では、本日午後、契約書の清書せいしょに入ります。たたき台は、けさのうちに用意してございますわ。第一条は能力譲渡じょうと条項、第二条は相互敬意そうごけいい条項、第三条は対等決裁たいとうけっさい条項。ほかに契約解除けいやくかいじょ条項などを加えた全五条、各条につき三案ずつ草案を添えてありますので、午後は細部を詰めて確定するだけですわ。書記官、清書用の上質紙を二束、午後までにご用意くださいまし」

「……は、はい、ただちに」

「それと、ご祝儀しゅうぎのご用意は不要ですわ。この婚姻は契約であって、祝いの対象ではございませんので」

書記官は、二度、頷いた。返事になっていなかった。

ロザリンドは、議題リストを片づけながら、ふと顔を上げて、上座の主君を見やる。

ルーカスは、まだ、彼女を見ていた。

その視線の温度が、いつもの閣議のそれと違うことには、――もちろん、彼女はまるで気づいていない。

午後の鐘が鳴るころ、この契約書には六本の条項が並ぶことになる。

──そのうちの一本を、彼女ではない誰かが書き加えることを、彼女はまだ知らない。

第52話 契約条件の見直しを提案します

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。