第54話 054

氷の大公の朝、ロージーの朝

「ロージー」

低い声が、耳のすぐ後ろで響いた。

「今日の関税改定かんぜいかいてい、俺のはんが要るか」

ロザリンドは顔も上げず、ペンの先で第七項の数字を二度なぞる。

朝の光が、執務机の上を斜めに切り取っていた。その光を、背後から覗き込む影が、半分塞いでいる。「氷の大公たいこう」が、朝から、妻の手元を覗き込んでいる。

ちなみに、これが、最近の普段である。

「いえ、閣下のお手をわずらわせるのは午後の議題からで結構です。ですので、いま覗き込まれましても私の手が止まりますので、もう一歩だけお下がりいただけますか」

「……手厳しいな」

「業務時間ですので」

ルーカスが小さく息で笑ったのが、首筋の温度でわかった。

一歩、彼が下がる。ロザリンドは満足そうに頷き、書類に戻る。

──寒さ管理は労務管理の一環。距離管理は集中管理の一環ですわ。

我ながら、よくできた就業規則しゅうぎょうきそくだわ、と内心ひとり頷いて、彼女はまた数字の列を追い始める。


朝食の席で、侍女頭が銀の盆を運んできた。

、本日のお茶は薄めにいたしました。昨夜お休みが遅うございましたので」

「ありがとう。助かるわ」

ロザリンドは礼を述べる。

侍女頭は深々と一礼してから、ふと付け足した。

「ロザリンド様、本日は午後の視察にお供しても?」

──ロザリンド様。

大公妃殿下たいこうひでんか」でも「世継よつぎを期待される御方」でもなく、ただの自分の名前。この国では、執事も侍女も商人も領民りょうみんも、まずそう呼ぶ。

椅子の向かいで黒パンを千切ちぎっていたルーカスが、視線だけで侍女頭に頷いた。

同行どうこうを許す。馬車は二台、街道かいどうの北回りで」

「かしこまりました」

侍女頭が下がる。

ロザリンドは紅茶のカップを両手で包んだ。

田中律子たなかりつこだった頃、職場でフルネームを呼ばれたのは入社式にゅうしゃしきの名簿読み上げが最後だった気がする。あとはずっと、「経理けいりの」「あの子」「お前」。

紅茶は、確かに薄めだった。胃に優しい温度だった。

「ロージー」

向かいから、声。

「視察のあと、夕方は空けてある」

「閣下、それは業務でしょうか、それとも?」

「では、業務でないほうの予定として、承りますわ」

ルーカスが目を細めた。それは公の場では絶対に見せない顔だった。


街の視察は、いつも通りだった。

いつも通り、というのが、たぶん一番の勝利だった。

商店通りに馬車を止めると、香辛料こうしんりょうを山と積んだ商人が深く一礼した。

「ロザリンド様! 先月の関税改定、あれで息子の徒弟料とていりょうが払えました」

「徒弟料が払えた──それが一番の評価ですわ」

商人は頭を下げてから、ふと声を落とした。

「祖国からの難民なんみんが、また増えております。受け入れ枠を、もう一段だけ……」

「来月の予算で枠を二倍にする。手続きはロザリンドの判で進めろ」

ルーカスが短く答え、商人が去っていく。

ロザリンドはふと隣を見上げた。彼は街ではなく、彼女の横顔を見ていた。満足そうな目だった。

「閣下、ご機嫌が見えております」

「気のせいだ」

「気のせい、ということにしておきますわ」

二人は馬車に戻った。


大公邸たいこうていに戻る馬車の中、ルーカスが膝の上で一通の封書ふうしょを開いた。赤い封蝋。祖国──アルバート王国の紋章。

ロザリンドは一瞥して、視線を窓の外に戻す。雪はもう降っていない。街路樹に薄く残っているだけ。

ルーカスは封書を黙って読み終え、それを上着の内側に仕舞った。

「ロージー」

「はい」

「祖国の聖女候補せいじょこうほ、修道院に入ったそうだ」

ロザリンドはしばらく、窓の外を見ていた。馬車が橋を渡る音。

「そう」

それだけだった。

ミリアという名前は口にしなかった。お気の毒に、とも言わなかった。あわれみも、勝ち誇りもなかった。

ただの、「そう」。

ルーカスはそれを聞いて、ほんのわずか、口角を上げた。

──彼の妻は、もう、あちら側を生きていない。

それを確認できたことが、彼にとっては今朝の関税改定よりも、はるかに重要な政務せいむだった。

ロザリンドは膝の上で指を組み直し、午後の議題リストを頭の中で並べ替える。第三項を先に、第五項を遅らせて、その間に侍女頭との打ち合わせを──

そこで、ふと、視界が斜めに揺れた。

「……ロザリンド?」

ルーカスの声が、急に遠くなった。

馬車の壁に肩がぶつかる。ロザリンドはとっさに、机に手をつくように、膝の上で指先を強く握った。

「失礼。少し、揺れましたわね」

「揺れていない」

ルーカスは即座に御者ぎょしゃへ合図し、馬車を停めさせた。

「医師を呼べ。今すぐだ」

「閣下、過労ですわ。昨夜、書類を遅くまで」

「ロージー」

「……はい」

「今は、座っていろ」

ロザリンドは口を閉じる。

ルーカスの声が、いつもの一段、低かった。それは命令ではなく、懇願こんがんに近い響きだった。彼女の前でだけ、この男はそういう声を出せる。

──ふしぎだわ、と彼女は思った。

過労なら、いつも通り紅茶で済むのに。

なぜ今朝の薄い紅茶は、なんだか、いつもより甘く感じたのかしら。

馬車の外で、ルーカスが部下に向かって走らせる指示の声が響いていた。

廊下の足音ではなく、街路の上で──あの大公が、走らせている。

それ自体が、たぶん、今朝一番の異例だった。

第54話 氷の大公の朝、ロージーの朝

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。