第29話 029

うちの国の利益のために、ね

朝、執務室の続きの間。

窓辺に立ったルーカスの背中を、朝日が薄く縁取っていた。秘書官アンナが書類の束を抱え、扉のすぐ内側で姿勢を正す。

隣室との扉は、半開きのままだ。

ロザリンドはそこで、もう三十分前から書類仕事に没頭している。ペン先が紙を擦る、規則正しい音が、続きの間にまで届いている。

「閣下。クラルク王国第二王子の滞在予定ですが」

「読め」

「本日午後の謁見後、三日間。歓迎晩餐、視察、最終日に通商協定の覚書調印を希望、とのこと──」

アンナの声が、途中で止まった。

主の横顔が、振り返らないまま、わずかに動いたからだ。

「アンナ」

「は、はい」

「あの男、もう国に戻したほうがいい」

アンナは、息を呑んだ。

ルーカスの口角が、ほんの一ミリ、上がっている。笑顔の輪郭だけを、機械的に作っているような、奇妙な角度の表情だった。

「──

声は、いつもより半音、低い。

アンナは、視線をそっと隣室の扉の方へ流した。

ペン先の音は、止まっていない。


同じ瞬間、隣室。

ロザリンドはペンを止めた。

ただし、それは閣下の声が聞こえたからではない。書きかけの試算の、最後の桁が合ったからだ。

紙の隅に、軽くメモを足す。

──「クラルク:早期帰国誘導」。

(閣下のおっしゃる通りだわ)

ロザリンドは細い指で、こめかみを軽く押さえた。

(クラルクの新港湾は、現場で決裁できる王族が常駐しないかぎり、回収の見込みが立たない案件。その王族ご本人をこちらで引き留めていては、遅延が積み上がるばかりだわ。お帰りいただいて陣頭指揮を執っていただくのが、双方にとって合理的ね)

合理的、と頭の中で繰り返すと、不思議と肩のあたりがゆるんだ。

数字に潜っているあいだ、こういう「人の動き」の側にまで、いつも手が回らない。

前世──社畜だったころは、それで何度も足をすくわれた。自分が気づかなかった一手は、誰も拾ってはくれない。回り回って失敗だけが残り、その尻拭いは決まって、いちばん下にいる自分の机に積まれた。

今は、自分が見落としかけた穴を先回りで塞いでくれている。

(閣下、本当に合理的でいらっしゃる)

ペンを握り直して、ロザリンドは次の桁に取りかかった。

隣室の主が、その同じ判断に、まったく違う温度を込めていたことを、彼女は最後まで知らない。


午後、謁見の間。

クラルク王国第二王子は、椅子に深く座り直して、まずは自分の家系の話を始めようとした。

ルーカスは、それを許さなかった。

「失礼ながら、殿下。本日は、貴国からいただいた出資しゅっしのお打診について、こちらの結論を先に申し上げます」

机の上に、一枚の図面が広げられる。

「貴国の新港湾建設計画。我が国の諜報網ちょうほうもうが独自に把握した、最新の進捗試算です」

王子の眉が、ぴくりと動いた。

「……これは」

「結論から申し上げます。──この計画へ我が国が出資することは、見送らせていただきます」

「な……っ、なぜだ」

「理由は、ただ一点」

ルーカスは、図面の竣工しゅんこう予定日を、指先で軽く叩いた。

「現場に、最終決裁を下せる王族が、常駐しておられない。資材の調達も、職人の手配も、判断待ちで止まる。現状の指揮系統では、三年内の竣工は困難かと」

「ま、待たれよ。それは──」

「遅延は、そのまま出資側の損失になります。年間およそ百二十万クラルク貨。向こう三年、毎年」

王子の額に、薄く汗が浮く。

ルーカスの声色は、終始、穏やかだった。

商談の声色、と言ってもいい。

「これだけの遅延損失を抱える案件に、我が国は資金を入れられません。──ただ」

一拍、置いた。

「逆に申せば、殿下ご自身が帰国され、現場で陣頭指揮を執られるのであれば、話はまったく変わります。判断の遅れが消えれば、損失も消える。そのときは、我が国も喜んで、出資を前向きに検討いたしましょう」

完璧に、合理的だった。

非の打ちどころが、ひとつもない。

王子は、しばらく沈黙し、それから喉の奥で短く咳をした。

「……急ぎ、帰国の準備をさせよう」

「賢明なご判断と存じます」

ルーカスは、礼の角度を完璧に作って頭を下げた。

その口角の上がり方は、隣室で見せたそれよりも、ほんの少しだけ、深かった。


廊下を抜けていく途中、クラルク王子は、向かいから歩いてくる銀髪の女性に気づいた。

書類を抱え、秘書官のアンナを伴ったロザリンド。

王子は反射的に足を止めかけた。せめて最後にひとこと挨拶を、と口を開きかける。

その視界の端から、すっと一枚の書類が差し出された。

「殿下。お発ちの前に、ご確認いただきたい出資協定の条項がございます」

ルーカスだった。

王子とロザリンドのちょうど中間、半歩だけ前に。書類を渡すための位置取りだったが、結果として、王子の動線は完全に塞がれていた。

ロザリンドは、すでに通り過ぎている。

「閣下からの伝言は?」とアンナに小声で確認する横顔。書類の数字に意識が戻っている、いつもの彼女だった。

王子は、書類を一枚受け取り、誰にともなく会釈をして、廊下を歩き去った。

その背中を、ルーカスは見送らない。

ただ、書類を渡す手の指が、一瞬だけ強く折れていた。


夜。

執務室。

ロザリンドが扉の前で、軽く頭を下げた。

「閣下。本日のクラルク対応、見事でしたわ」

ルーカスは書類から目を上げない。

ペン先を一行進めてから、ようやく、短く返した。

「当然のことをしたまでだ」

ロザリンドは小さく笑って、自分の机に戻っていく。

その後ろ姿が扉の向こうへ消えてから、ルーカスはようやくペンを置いた。

窓の外、大公国の夜の街並みに視線を投げて、ほんの一度だけ、口の中で繰り返す。

──当然のことをした。

それ以上は、地の文にも、出さなかった。


翌朝、社交場の使節控え室。

入れ替わりに到着した他国の令嬢たちが、扇の陰でひそひそと、ルーカスの姿を盗み見ていた。

挨拶を試みる者が、三人。

「閣下、お久しぶり──」

「失礼」

「閣下、本日のお茶会に──」

「予定がある」

「閣下、よろしければ──」

「アンナ、次の試算を」

三秒、三秒、三秒。

きっかり同じ尺で、会話は終わっていく。

ルーカスは廊下の奥、ロザリンドの試算メモが置かれた机の方へ、迷いのない歩幅で歩いていく。

令嬢たちの扇の動きが、止まる。

そして、止まったまま、しばらく動かなかった。


その夜、アンナは秘書官室で、当日の業務日誌を閉じた。

「閣下への縁談打診:本日付で、残三件」

ページをめくり、もう一行、書き足す。

「ロザリンド様への縁談打診:本日付で、五件──いずれも、本日中に処理済み」

呟いて、ペンを置く。

閣下宛ての三件は、手つかずのまま積まれている。返事を書くどころか、封すら切られていない。放っておけば、そのうち相手が諦める──とでも思っているのだろう。

けれど、ロザリンド様宛ての五件は、まるで違った。届いたその日のうちに、ひとつ残らず片付いている。どこかの商会の不渡り、どこかの家門の資金繰り、どこかの縁組みの白紙化──理由はいつも、見事なまでに経済的だった。放置ではない。一件ずつ、的確に、潰されている。

そして、当のロザリンドは、自分に縁談が来ていたことすら、たぶん知らない。

アンナは小さく息を吐いて、ふっと笑った。

──ご自分の縁談は封も切らないくせに。ロザリンド様の分だけは、その日のうちに、経済ごと。

机の引き出しを開け、明日の処理予定リストを取り出す。一番上の項目に、自分の字で書かれた一行があった。

「ノースランド公国使節、滞在延長の打診あり」。

表向きは、商談の延長。けれど、あの使節がこの国にしつこく留まりたがる本当の理由を、アンナはもう察している。──狙いは、ロザリンド様だ。

アンナはその行を見つめて、しばらく考えてから、もう一度笑った。

──この件も、明日の朝、閣下のお耳に入れた瞬間、たぶん経済的に片付くのだろう。

ペンを取り直して、項目の隣に小さくメモを足す。

「要・経済的論理での処理」。

それから日誌を閉じ、灯りを落とした。

第29話 うちの国の利益のために、ね

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。